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text/キムチ

われわれポスト団塊世代は、
つねに流行ものに追いついていないといけない
という強迫観念につきまとわれているのか。

和田アキ子の35周年記念にクレイジーケンバンドの横山剣が『ルンバでブンブン』という曲を提供したとかで何かの雑誌で二人が対談したという記事が新聞に載っていた。あの和田アキ子がいつになく神妙な様子で語っているというのも(どうでもいいけど)興味を引いたが、一番興味を引いたのはあの近田春夫先生が日本語のロックを逃げずにまともにやっているとかでクレイジーケンバンドを評価しているというそのことにだった。それでさっそくインターネットでクレイジーケンバンドをダウンロードして聞いてみる。なんだかあんまり面白くない。
そこで対比されて批判されていたのは例えば宇多田ヒカルだったりするのが、正直言って私は宇多田ヒカルだったり平井堅だったりが嫌いではない。(いま久しぶりに宇多田ヒカルを引っぱりだしてきて聞こうと思ったらMDのメディアが壊れていて隣にあった平井堅のMDに替えたのだ。どっちもファーストアルバムである。)
あんまり関係のない話だが、稲増龍夫の『パンドラのメディア』(筑摩書房)によると、「団塊の世代は理念を盾に伝統を破壊したし、ポスト団塊世代は常にトレンドを知っていたいという「先端感覚」につきまとわれてきたが、団塊ジュニアは肩の力を抜いて古いものにも価値を見いだし、快楽だけを軸に評価を下す」らしい。もちろんわれわれはポスト団塊世代に属してて、つねに流行ものに追いついていないといけないという強迫観念につきまとわれていることになる。
「テレビは時代をどう変えたのか」というタイトルをもつこの本によると、「テレビは当初は画一的な大衆に向けて知的・政治的権威が一方的に啓蒙する機器であった。ところが80年代から自局の番組のパロディを行うといった自己相対化の傾向が強まるにつれ、視聴者の国民は唯一絶対の権威を信じなくなり、興味ごとに住みわけるようになった。」そう解説しているのは朝日新聞の書評欄の松原隆一郎である。
そこでようやく宇多田ヒカルの話になるが、松原隆一郎はこう書いている。
「ただし評者は、宇多田ヒカルのメガヒットのごとく分断された人々も一瞬だけ画一化することがあるといった「瞬間大衆論」には、異論がある。一部の専門家が評価するマニア商品であっても、多くの非専門家が楽しめるよう商品開発方式が変わったというべきではないか。MS−DOSがウィンドウズになって普及したのが好例だろう。」
話の流れとしては、団塊ジュニア世代は快楽だけを軸に評価を下し、唯一絶対の権威を信じず興味ごとに住み分けるがゆえに分断されている。そうした人々の間で宇多田ヒカルのようなメガヒットが生まれる理由を稲増は「瞬間大衆論」として説明しているらしいのだが、それに松原は異議を呈しているのである。松原によるとマニア商品であったMS−DOSがウィンドウズになって非専門家にも楽しめるようになった。同様に正しくない日本語の宇多田ヒカルも非専門家が楽しめる商品開発方式に変わったということになるのだろうか。
しかしながら、どうも何を言っているのかよく分からない。

    
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