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●(金水)電子メディアの発達によって、さまざまな情報がネットワークの中を流れるようになった。そのことによって人々は必要な情報に簡単にアクセスできるようになったと考えることもできるし、あるいは、むしろ必要な情報をどんどん蓄積していける者と、簡単にはそうした情報にアクセスできない者との情報階級格差がむしろ広がっているとと考える人もいるわけです。また、本当に簡単に、さまざまな情報を入手し、また発信することもできるために、情報過多によって却って必要な情報に接近しにくくなる、あるいは、今度はその情報の処理が追いつかないという問題が発生してくるようにも思えるのですが。

■(黒崎)電子メディアの持つ具体的な性格に引き戻して考えてみると、情報を蓄積するのが紙だった場合には、手ごろな情報量というのがありますね。たとえば、手書きカードで情報を蓄積していく場合、100枚だったら十分活用できるけど、それが 1万枚作ってしまうと、一切が無意味になる。つまり、情報が増えると、それに対するアクセスの困難さが増加するから、紙の文化の場合には、情報量の増加が、情報の活用度を阻害する。ところが、電子メディアの場合には、情報は物じゃないので、いくら入れ込んでおいても困らない。ハードディスクか何かの中に、ゴミだろうが何だろうが、とにかく入れておけばよい。必要なものだけを、検索の網で取ってこれる。情報量の増加が、アクセスを阻害しないという構造があります。したがってわれわれの日常のさまざまな行為、カードを使って買い物をするとか、会員証でビデオをレンタルするとか、あるいは、高速道路を通行するすべての車のナンバーをコンピュータに蓄積する。そういう本当にトリヴィアルなことが、すべて蓄積されてしまう。紙の文化だったら考えられないことです。それら蓄積された膨大な情報は、一度も使用されなくても、コンピュータにはいっこうに負担にならない。電子メディア時代では、われわれの何でもない行為までがすべてどこかに保存されている。究極的には、あらゆる人の、あらゆる場所における、あらゆる行為が保存されることになる。この構造は、知りたいときにはすべてを知れる、知りたくないときには黙っていてくれる、そういう電子メディアの特徴が大きいと思うんです。

●(金水)ネットワーク上の問題としては、フレアリングというそうなんですが、掲示板やフォーラムといった場所で、お互いに反省なしに怒りをぶつけ合ってそれが燃え上がって飛び火したりして、フォーラム全体が大変なことになるといったことが起こりますね。手紙の場合と違って、一旦冷静になるという反省の時間がなかったり、あるいは相手がどういう文脈でどういう積もりで文章を書いているのか分からないために、過剰に反応してしまうということがあるようですが。

■(黒崎)そうですね。手紙の場合には、たとえば筆を用意して、紙に書いて、宛て名も書いて、切手を探して貼って、ポストに投函する。そこで、留まる瞬間というか反省する時間が存在する。ポスト、つまり〈差延〉ですね。けれども、電子メールでは、相手が一人の場合はともかく、たとえばフォーラムなどが開かれていた場合には、自分の意見をパブリックにする、その距離感があまりにもない。もう、自分の発想そのものが、瞬時に公のものとなってしまう。とにかく脳味噌に電極をぶち込んで、直結して表に出すという形に近いから、フォーラムなんかでの意見のやり取りというのは、本当に混乱状態なんですよね。カオス化してしまって、有効な情報源としてはほとんど使えない。だから、逆に専門家同士で閉じてしまうという方向にどうしても行きがちなんですね。

●一般に開かれた会話を交わすことができるのが、電子メディアにおけるフォーラムの利点であるはずなのに、結局専門家同士で閉じてしまう逆説が起こってしまうと。

■あまりにその瞬間瞬間をそのまま書き留めてしまうものだから、(ヒュームのいう)「知覚の束」、(カントのいう)「知覚のラプソディ」になってしまって、統一的な視点を作るだけの時間的なディレイがない、という感じはありますよね――もちろん、カントで言えば、超越論的統覚は、単に時間的なディレイの問題だけじゃありませんけど。具体的な電子情報網の次元の話に戻せば、同じ構造が、管理する側にも起こっていると思う。あらゆる情報が光速でやって来て同時に表示されてしまうということになると、1000も2000ものリアルタイムの情報が私の所に入って来てしまうわけで、それは「すべてを見る」というパノプティコンめいた錯覚を与えるにもかかわらず、実際にそれを見る者は膨大な情報の海の中におぼれてしまうだけかもしれない。われわれが、主体的に、つまり、推論的(理性的)にものを考えられたのは、メディアの制約によって、たまたま判断すべき要素が比較的少数だったから可能であっただけなのかもしれませんね。

●電子メディアの出現によって、著作性ということにも問題が発生してくるようですね。知的所有権や著作権の問題がやかましく取りざたされるようになりましたが、コピーの問題の以前に、そもそも誰の著作であるのかということが、例えば、フォーラムで何人もの討議の上で作られた文章といったものができた場合、根本のところで揺らいでくるということがありますね。

■声のコミュニケーションというのは話し手と聞き手の両方が現前しているわけですけれども、文字のコミュニケーションというのは、どちらかが不在なわけでしょう。書いているときは読者が不在だし、読んでいるときには著者が不在である。そのずれが超越論的なものを生み出して、結局、著者性の権威というものを形作ってしまった。出版された書物に向かってどんなに反論したところで、その本はびくともしないわけです。そういう形で、少数の著者が多数の読者を教えるという構造が成立してしまったのは、同一テクストの大量複製というグーテンベルク・テクノロジーによると思うんです。それが、さっきのように複数の著者が共同執筆するとか、そんな立派な言葉を使わなくとも、自分で適当に打ったのが5分後に向こうに行って、それがまた5分後に書き込まれて戻ってきてしまうとかいうことになると、著者と読者の厳然たる区別というのも現実問題として徐々に失われてくるだろうし、「私のオリジナルだ、全部読め」という形で書きもしなくなっていくだろう。グーテンベルク・テクノロジーの構造だと、やはり起承転結というのがあって、「私はこれを言いたい」という一貫した主張が根底にあるわけです。ところが、ボルターの『ライティングスペース』という本自体、最初にマックのハイパーカードで書いているという感じがあって、印刷本にしてしまうと、こっちを言ってみたりあっちを言ってみたり、どうも一貫した主張というのが見えにくい。ハイパーテクストはリニアな構造を要求しないから、起承転結を意識せず、思ったことを書く、それに反する論点も同時に書く、というふうにやれる。著者が一貫した声で語りつづける必要がないんですね。パピルス・ロールだったら、冒頭から書いていかなきゃならないし、冒頭からめくって読んでいかなきゃならない。原稿用紙になると多少自由になるけれど、それでも文字を後ろから書くわけにはいかないから、冒頭から書く。それで起承転結ができるわけです。つまり、メディアの持つ特性が、書き方や読み方、著者や読者の姿勢を決めていた。とすれば、電子メディアにおけるノンリニアで共同的な書くこと=読むことの構造というのは、やはり、著者と読者という関係を完全に変えていかざ・u毆)るを得ないと思います。

●電子メディアやネットワークの上でそうした作業が行われて、それが新しい可能性を生み出すこともあり得るだろう。しかし多くの場合、一般に開かれた場所というのは、混沌としたカオス状態ではないでしょうか。例えば私も以前に坂本龍一のメーリングリストに参加したことがあるのですが、送られてくるメールの量が半端ではなくて、ダウンするだけでも時間がかかって読むどころではなくて、会話に参加するなんてとんでもありませんでした。これは別にそのメーリングリストに問題があったわけではないですが、そんなところにも単純に量的な問題が起こってしまいます。

■グローバルに開いた場合、1万や2万の全く面識のない人の意見がいっぺんに入ってきたら、本当にどうしようもない。現実に、日本の狭いネットワークの中だって、1日に 200通とかの書き込みがある。200通となると、もう読むのは全然無理なんですよ。結局、グローバルにつながっていても、あまりに情報の量が多すぎて、無意味化してしまうんですよね。パソコン通信は、まさにそういう感じです。私は前に、パソコン通信は文章表現のカラオケ化だ、と書いたことがあります。開かれたフォーラムに入っちゃったりすると、カラオケ・パブに行っちゃって下手な歌を延々と聴かされ続ける感じ。それで、これはとても耐えられないということで、閉じた空間を作る。それがカラオケ・ボックスですね。かつては、歌というと、訓練したプロが、いい歌ばかりを聴かせてくれるということだった。それがいまは、民主化したというか大衆化したというか、すべての人が歌っていいということになってしまった。ちょうど、パソコン通信において、すべての人が自分の意見をパブリックにしていいんだということとパラレルですよね。これはもちろんある意味ですばらしいことかもしれません。けれど、実際は、聴くに耐えないような歌がずうっと続くわけで、その中にはいい歌が一つぐらいはあるかもしれないけれど、その一つを探る労力のあまりの膨大さに、やはり閉じていくほかない。そうやってカラオケ・ボックス化していくんでしょうね。

●電子メディアによっていわば直接民主主義が実現可能になる。それは可能性としてはすばらしいことだ。しかしその直接民主主義が、安定的なものとして機能するかどうかというは、大いに疑問だといわれていますね。例えば、テレビで視聴者から電話やメールやファックスで意見を聞きながらの番組をするとする。そうすると、時間の経過で番組の内容が進展するに従って、視聴者の意見自体が変化したりする。結局、視聴者の意見というもの自体が流動的なものであるということになる。

■だから、直接民主主義というのを、どの時点でやるのか、ニュースを流す前にやるのか、後にやるのか、それだけで結果が全然違ってくる。だいたい、一人の個人にしたって、どうしようかとずいぶん迷っている。その総和が増幅されて出てくるだけだから、それはもう、かなり混乱するでしょうね。

●国民の総意というものは、実はかなり間接的な手続きを経るからこそそれが実際に存在しているかのように語ることができた。それを直接民主主義でやってみたら、国民の意思などというものは一瞬一瞬にあっちこっちに揺れて、そんなものは存在しえなくなってしまうだろうと。

■そうなると、完全にバークレー的な状況ですよね。一瞬一瞬、私も別な自己であり、政府も別な政府であり、ただ命名によって一貫性を保持しているだけだ、と。

●湾岸戦争の時に、CNNのニュースが戦争の進展を刻一刻と伝えて、それがまるでゲームの戦争の映像を見るようであったということが話題となりました。しかしCNNのニュースですら映像を切り取って編集したものである。本当にリアルな映像というものは、先ほどから語られているフォーラムやパソコン通信での会話のように、膨大で退屈でとりとめもないものだと考えられそうですね。

■われわれは、世界のあらゆる所にカメラが入っていて、現実を見ているんだという感覚を持っているけど、実は、3分なり15分なりで起承転結のあるドラマを次々と見せられている。生の情報といっても、実は編集されていて、そこにはかならず他者の意図が入っているんですね。さっきも言ったけど、そういう情報が1000チャンネルも2000チャンネルも個人の部屋まで入ってくる。そこで、個人は、世界のあらゆる出来事を手中に収めたような気になる。だけど、私の目というのは一組しかないので、2000台のTVを置いたにせよ、やはりそれを順次見ていくしかない。しかし、その間にも、電子メディアのリアルタイム性によって、情報は刻々と変わってしまう。2000台のTVをいっぺんに見通す目というのを、私たちは持っていないわけです。だから、超パノプティコンといっても、今度はそれを最終的に取りまとめて統括的に見通す視点自体が成立しなくなるわけですね。

●電子メディアが引き起こしている一般的な状況について、お話をお聞きしてきました。最後にCNNのニュースの例が出てきたわけですが、実際、この黒崎さんとの虚構の対話も編集されているわけです。私は黒崎さんと面識もありませんし、お話をさせていただけるような立場にもないわけですが、黒崎さんが参加されたある雑誌の対談の中の発言を引用し、編集することによって、私とのあいだのいわばバーチャルな対話が作られたわけです。一般に、文章は異なる文脈の中では異なる意味を持つものな訳ですから、私は黒崎さんの発言を切り張りした部分はあっても、内容を変更した部分はないわけですが、それでもここでの黒崎さんの発言はもともとの発言とは異なったものだと考えるべきでしょう。そこで、著作性というものも当然変化してくるわけです。私の発言にしても、この対話を対話のように見せるために作られたもので、そのまま私の意見ととられても少し違うかな、と思う部分もあるわけです。では、一体この悪ふざけはなんであると言えるのか。ただ、電子メディアが引き起こしている一般的な状況について、いわばコンスタティヴに語るという点については悪意はないつもりなのだと。そういうことでお許しいただきたいと思うわけです。それでは、どうもありがとうございました。

■部分は、InterCommunication No.12 1995における浅田彰(社会思想史)、大澤真幸(社会学)、柄谷行人(文芸批評)、黒崎政男(哲学)の対談、「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」より、黒崎氏の発言をかなり恣意的に引用・編集。一部( )内は金水が補った。)


text/金水 正 

linking/電藝編集部