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 ところでこのアンケートの設問には、無意識であるにせよ、一つの奸計が計られているように私には思える。それは質問をしたのが高校生であり、事件を起こしたのは中学生であるという事実の無視だ。回答は「質問をした中学生」に答えるように仕向けられている。70もの回答がこのように生真面目に、咬んで諭すような調子のものに終始一貫することになった理由は、回答が中学生に向けられたものであることが大きいように思える。事実、この引用の中に見られるように大澤真幸もまた「ニュース23」の質問者が中学生であると誤解した上で、このアンケートに答えている。

 私が以前の原稿を書く際に、この高校生のことを教えてくれた友人は、高校生のこの質問に一瞬虚をつかれたような気がしたと言っていた。彼がなぜ虚をつかれたかといえば、確かに人を殺してはいけないと自分も思っていたが、それがなぜかといわれれば、自分の心の中にそんな答えは存在しないと思ったからだという。

 しかし私がこの高校生の話を聞いたときに最初に感じたことは、むしろそれはありがちな、ありきたりな疑問であり、そうした疑問に対しては、必ずしもまっとうに回答する必要がないのではないかということだった。私が、『文藝』のアンケートの回答に違和感や嫌悪感を感じたのも、にも関わらず、多くの識者があまりにも素朴にまっとうに回答を寄せ過ぎているという、善意の連鎖へのそれであったと思うのだ。

 では何故、質問者が高校生であったとしたら、必ずしもまっとに回答する必要はないなどと言えるのか。一般に、青春時代や青年時代といわれる時代は、それまで彼が受け入れてきた通念を、いま一度疑い、自分の中で捉えなおすという作業をする時代だ。そうすることで彼は「社会」というものに出会う。「社会」というものの成り立ちを疑ってみるときに、それを正当化する根拠は簡単に見つかるものではない。そのことよりもそれが成り立ち、ある安定性を持って機能しているということが、社会が社会であるということの意味であるからだ。

 ここにはある単純な構図がある。それは「大人」対「青年」という構図だ。青年は大人の社会に対して疑問を抱く。これは「青年」の定義のようなものだ。ここで「大人」はどのように振る舞うべきか。どのように振る舞ってみても、青年は大人を虚仮(こけ)にするだろう。それはそうすることが「青年」と「大人」との定義上の役割分担のようなものだからだ。だからこそ、社会の根幹に関わる質問を青年が大人に投げかけることは、むしろ古典的な役割に根ざした陳腐で凡庸な(しかし、ある意味で止み難い)出来事だというべきであって、であるとするならば、その質問にたじろいで、それに真っ向からの返答を用意するというのは「いい大人」にとっては芸のないことだというのが私の印象だったのだ。

 だからといって、まっとうな返事を用意することがいけないことであるというわけではなかろう。ひとつの例を取るならば、ドストエフスキーの『罪と罰』の中でラスコーリニコフは、偉大な人間は卑小な人間を殺す権利を持つという理論の下に、高利貸しの老婆を殺害する。何人かの、もしかしたら何千何万もの人を救済するかもしれない偉大な人間が、虫けら同然の一人の人間を殺したとして何の問題があるだろうという、この設問自体は陳腐なものであると、小説の中では語られている。だが、ラスコーリニコフの理論は、むしろこの設問の足し算引き算を越えて極端化したものであって、歴史上の特権的な人物は世俗的な道徳を超えることが出来るのであり、また超えなくてはならないといったものに精練されている。現実的には、ラスコーリニコフの犯罪は、そうした純粋理論的なものであったとは言い難いだろう。様々な動機と感情と偶然とが作用して、犯罪は行われてしまった。

ここでひとつ指摘しておくべきことは、このラスコーリニコフに見られる、万能感的な肥大した自我が、酒鬼薔薇事件のような場合にも、オウム事件のような場合にも、犯罪を引き起こす原因として多くの心理学者によって指摘されていることだ。こうした犯罪の場合、犯罪を引き起こす万能感は、むしろ自我の発達の未成熟によると指摘される。しかし自我の肥大は、青年時代の必然性として、論理的に生じるものでもあって、それは『悪霊』のスタヴローギンのも同様に指摘できるであろうし、多くの革命組織のテロやリンチにも指摘できる機序であるというべきだ。

 物語に戻るならば、結果としてラスコーリニコフは、この純粋論理を完遂することができない。彼は衝撃を受け、悩み、やがてソーニャに導かれて自白する。ラスコーリニコフが、その後自らの罪と罰を受け入れ、癒されるのは、流刑先のシベリアで更に長い年月を経てのことであるけれども、その経緯をいま詳細に検討する余裕はない。しかし、ここで語っておくべき事柄は、ドストエフスキーがこの小説に託した、この問題への回答は、少なくとも私にとっては必ずしも自明のものではないということだ。そして、そのことは、この作品の価値を少しも損なうものではない。

 おそらく問題は、まっとうに回答するかどうかということでも、正しく回答することでもない。仮にまっとうに回答しないという振りを大人がとったとしても、そこで大人はすでに青年に必然的な対応を迫られている。まっとうに回答しようとしまいと、そこで大人と青年は、ある同一のレベル(心理学者なら「自我レベル」で、というかもしれない)で対峙している。そこで青年は、彼が対応している大人を越えて「社会」と対峙しているからだ。

 ところが、酒鬼薔薇事件で、そしてこのアンケートで問題にされているのは、中学生だ。そして、であるからこそ、回答者たちは多く咬んで含めるようなもの言いをしてもいたのだ。中学生と高校生のレベルの違いが現実的にどうであるという議論以前に、回答者たちは、同一のレベルでものを語ることを、最初から放棄している。

 そして、逆説的にもこのことが、酒鬼薔薇事件の特徴をあきらかにしているように、いま私には思える。事件には、確かにこうした実存的な疑問(なぜ人を殺してはいけないのか)が含まれている。しかし、その疑問は、それが実存的な葛藤として意識に浮上する以前に、中学生によって実行されてしまった。おそらくそれは質問の形をとる以前に、実行されてしまったのだ。そしてだからこそそれは、この事件の根深さを語ってもいるだろう。

 おそらくは、この問いに答えることによっては、(それがどのような解答であろうと)この問題を解決することは出来ないだろう。むしろこう考えてみるがいい。みんなが人を殺してはいけないと思っている。そのことが現代の多くの少年たちに息苦しさ(生き苦しさ)を与えているのだとすれば、よってたかった正しい答えは少年たちの息苦しさを増すだけだろう。であるとするならば、もしそこで人を殺してはいけないのかという疑問を抱くことは、そのこと自体が彼の救済であったはずなのだ。しかし、実際には彼はこの疑問を抱くにはいたらず、それを実行してしまったのだ。

 もし件の少年がこの質問に到着していたとすれば、それはそれだけで救いであったと思われてならない。疑問を抱くことが、それだけで救済なのだ。疑問に答えることが、救済なのではない。だから、おそらく「人を殺してはいけないのか」という問いは、それが不可能であっても問われなくてはならないのだ。