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text/金水 正

「なぜ人を殺してはいけないの?」ときかれたらあなたは何と答えますか、というアンケートに答える必要がなくて良かったと思ってしまう心理は、いったいどこからやってくるのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『文藝』誌の1998年夏号で「なぜ人を殺してはいけないのか?」という特集が組まれている。「14歳の中学生に「なぜ人を殺してはいけないの?」ときかれたらあなたは何と答えますか」というアンケートを行い、70名近い人たちの回答を得て掲載された特集だ。
「月刊電藝」1号で「人を殺してはいけないか」という原稿を書いた私がこの特集を読んだ感想は、こんなアンケートに答える必要がなくて良かった、というものだった。勿論、ひとかどの人たちが回答を寄せているのであるから、アンケートが市井の私のところにやってくるいわれもないのだが、それでも勝手に「人を殺してはいけないか」という原稿を書いた人間が、にもかかわらず、答える必要がなくて良かったという感想をいだくというのも変な話ではないか。

 では、回答の全体を斜め読みした時に抱く(ひとつひとつの回答には好感を持つものも、秀逸だと思うものもあったが)違和感や嫌悪感、そしてこんなアンケートに答える必要がなくて良かったと思ってしまう心理は、いったいどこからやってくるのか。

 その違和感や嫌悪感が、70もの回答が並べられたことの効果として生まれていることは間違いない。おそらくそれは、「俺はそんな質問に答える正解なんかもっていないよ」と答えている一部の回答者を形式的には除いて、ほぼ全員が真面目に、あたかも回答者はそれに答えなくてはならず、そして回答者はそれに答える資格を持っているという前提のもとにすべてが書かれていて、そのこと自体への疑問がないように見えてしまうことによるのだろう。

 そもそも、このアンケートが行われた理由は何か。それはひとつには勿論、少年A、あるいは酒鬼薔薇事件のことがある。しかしもう一つの理由は、前の原稿でも触れたように「ニュース23」に登場したという高校生の事があったはずなのだ。ことの成り行きをもう一度簡単に書くならば、その高校生は番組の中で「どうして人を殺してはいけないのか」と質問し、「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」と答えて大方の顰蹙をかったのだという。けれども番組を見ていた人たちがむしろ衝撃を受けたのは、彼のこの質問にまともに答えられる大人がいなかったということによるようだった。このふたつの事件が結びつけられて、このアンケートはできあがっているように思える。

 たとえば大澤真幸は、『心はどこへ行こうとしているか』(マガジンハウス)の町澤静夫との対談の中で、このアンケートに触れてこう語っている。

大澤----僕は、依頼があった時、初めは無視しようかと思ったのですが、そう聞かれた時に何か言えなければ負けだと思ってアンケートに答えました。というのは、私は見ていなかったのですが、筑紫哲也の『ニュース23』という番組で中学生を何人か呼び、彼らと何人かの作家や評論家を交えた座談会をしていたら、突然、その中のある中学生が、「ところでなぜ人を殺してはいけないのですか?」と疑問を呈したらしいんです。同席していた評論家や作家は、そこまで聞かれるとは思わなかったので、一瞬座が緊張し、誰もそれに正面からは答えられなかったらしい。この番組を見ていた文芸評論家の加藤典洋さんは、それに答えられなかったのは大人の負けで、それにきっちり答えるべきだったと言っていました。僕もそう考えていたので、やはりアンケートにできるだけ正面から答えないといけないと思ったんです。特に僕は社会哲学を専門としていますが、そういう基本的なことに答えられなくて何の社会哲学かという気持ちもありました。いずれにせよ、そういうことまで中学生に問われてしまうということは、僕らが苦境に立たされていることの象徴だとも思います。

 おそらく、中学生から突きつけられたひとつの、社会の根幹にかかわるような疑問に対して、大人はきっちりとした解答を与えなくてはならないという思いが、このアンケートの70もの答えに充満していた基調であることは間違いないだろう。