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text/金水 正

交換はいかにして成立するのか? そこに柄谷は死の跳躍があると言っていて、それが多分柄谷の資本論の(読みの)要なのです。

交換はいつも成立するのか?そんなことは限らない。何しろ相手は、鬚の濃い言葉の通じないへんなやつなのだから、だまされることだってしばしばなのです。したがって交換がいつも成立するか、あるいは成立するのかどうか分からないと捉えるかは大きな違いで、他者をどのような人物として捉えるかもそれによって違うでしょう。
一般に社会学とは、秩序がいかに成立するかを学問するものですから、そこに登場する他者も幾分か見慣れた、比喩的な表現で捉えられる範囲での対象になるでしょう。

例えば大澤真幸のいう他者も、そういう他者です。(では、もっとでたらめで乱暴な他者を登場させればいいのかといえば、それはしばしばロマン主義的なものになりかねない。例えばアルトーだってロマン主義的に矮小化されることはいくらだってあるわけです。かれに引き続いたさまざまな残酷演劇、ハプニング劇、集団劇、舞踏などにも、そういう末路をたどったものがあったはずです。)

オポチョトーリオの石榴はうまいか?
となりのトトロでおばあちゃんの畑でかぶりつくトウモロコシは、弾けるような黄金の粒を蓄えた甘いトウモロコシだったに違いない。それを神話の始まりの日のように味わうことができたのは、彼女たちが町から引っ越してきた子供だったからだろうか。いまわれわれの食卓の上にならぶトウモロコシは、コンビニで塩ビのラップに包まれたどれも同じ大きさのトウモロコシです。
『啓蒙の弁証法』の中で、ホルクハイマー/アドルノは、オディッセウスを冒険的交易者として捉えて、かれが獲得する利潤はそのリスクに見合ったものだという見解について考察しています。ベニスの商人は、そのリスクの上前を刎ねようとしていたことになるのでしょうか。

オポチョトーリオで思い出したけれど、オポチュニティーという言葉は、「港に向かって吹く風」というのが語源だそうですね。