特集 塚本敏雄
 
――あるいは 不在者との終わりなき対話


 いい詩集を読んだな、という印象は、一編の詩、一片の断章によって与えられるものではない。その詩集全体に一貫して存在する者の姿、紙の中を彷徨する一人の視者であり聴者であり話者である者の姿、その姿が一つの軟体動物のような実体として感得できた時、その時はじめて、いい詩集に出会えたと思うのだ。
 それは言葉との出会いというよりも、むしろ一人の人間との出会いとでも言った方が近い。その詩集が編まれるまでの長い生活の時間、その中でやむにやまれず言の葉をつむぎ続けてきた者の、そのやむにやまれなさが詩集全体を通して揺らぎながらも散裂することなく、確かにゲル状の彷徨者としてみとめられる――そのみとめられる一体のゲル状彷徨者を指して詩人というのだろう。

 「いい詩集に出会えた」という喜びは、その言葉がたとえどんな哀しみの淵から届く声だとしても、そのような「詩人との出会い」の喜びとして醸成されるものなのだろう。遠い昔、幾人かの詩集に、そうした出会いの喜びを味わった記憶がある。塚本敏雄の詩集『リーヴズ』は私に、その遠い昔の肌合いを想い起こさせてくれた。

 それにしても、この詩集全編に流れる歓喜とも呪詛とも遠い「諦観」の調べは、何だろう。澱みなき諦観の調べ、とでもいうような。おそらくこれは、静かに言葉の網を張りつめながら、少なくとも四十有余の齢を重ねてきた生活者でなければありえない、美しき諦観なのだろう。そうでなければ、

  君が何か取るとき
   君はそれ以外の無数の何かを取らない
    取られなかった無数の何かが
    君の周りを占めている
  それがつまり
   君の空だ
      (「一条の光」)

などという珠玉のフレーズが生まれるはずがない。
 ところで、この「喪失の記憶」に満たされた空は、さらに次のように連鎖してゆく。

    中空に差し伸べられた手の先が
    何も掴めないままに力を込められていき
    細かに震えている

  その手の向こうを
    ひとはすでに空と呼ぶのだろう
                 (「空」)

  野の空に吹く 視えない網
  捉えられたのち ぼくたちは目覚める
   ここはどこだ?
         (「リーヴズ」)

 この美しい三つの詩篇の断章を並べれば、この詩人の空が視えてくる。その空は、つねに何かに満ちているのだ。それは決して歓喜でも呪詛でもない。それは、私たちが捉えられなかった透明な無数の記憶の堆積のようなものだ。
 彼の詩は、私たちが何色で、どのような形態をしているのかの謎を決して解こうとはしない。私たちの中に、何が満たされているのかを解こうとはしない。そうではなく、私たちの外部が何に満たされているのか、そのような抗うことのできない私たちを包む記憶に満ちた空を、私たちに感応させてくれるのだ。それは、彼の詩がいかに叙情的な装いを纏っていようとも、内面を謳う詩とは対照的な営みだろう。
 そのような空に、外側から満たされた私たちが、それに抗うことなく、それを引き受け、生きてゆかざるをえないこと、そのような“満たされ”が生の静かな肯定につながることを、この詩人がある種の懐かしい肌合いの言葉でつむいでゆく時、彼の詩は、祈りに近いものに変容してゆくように、私には思えるのだ。
 祈りはいつも、不在者との静かな対話だ。記憶の堆積に満ちた誰もいない聖堂の中で、ひそやかに続く不在者との対話。――塚本敏雄の言葉の静謐さと清浄さのゆえんが、そこにある。