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   多種多様な顔、多種多様な意

 原田大三郎に鈴木裕のアルゴリズムの話を聞いた学芸員は、鈴木裕はフレーム問題を解決したと興奮していた。しかし、鈴木裕が行っていることと、フレーム問題が問いかけていることにはもちろん相違がある。鈴木裕のアルゴリズムは「シェンムーの世界」を生成する。無限に分岐し、無限の可能性をもつ「世界」をシェンムーは作り出しているかのようだ。一方、フレーム問題が問いかけているのは、世界が無限の複雑性を持っているがために、それを解析するためには無限の分岐をたどらねばならないように、そのように世界が現れるということだ。一方は世界を演繹しようとし、一方は帰納しようとしてとん挫しているかのようだ。

 世界が多種多様な顔を持ち、多種多様な意志を持つこと。無限に分岐するその世界の相貌が、フレーム問題を引き起こしてコンピュータのプログラムをフリーズさせる。「フレーム問題」は、われわれが<リアルである>と感じる世界の相貌がどういうものであるかということを、逆説的に示してくれているように思われる。

 吉田直平は、「ヴィデオゲーム試論/4」で書いている。

 さて、「シェンムー 第1章 横須賀」のプレイを経て、わたしの現実は街をゆく人の佇まいに異様さを認めるようになっている。それは、リチャード・マシスンの短編の読後に残る、かつてニューロティックと呼ばれた現実遊離感と似ている。あらためて商店街を見回せば、そこには多種多様な顔の(よく見れば、多少は見知った顔も混じる)人々が、そして犬や猫が、多種多様な意思をもって、道を歩き、立ち止まり、他愛のない会話を交わし、道端の張り紙を注視したりしている。無意味に手をぶらぶらさせたり、前かがみに傘をさしたり、雑誌を抱えていたり、ひっきりなしにずり落ちるカバンのベルトを手で押さえていたり、マメでもあるのか、なぜか片脚をひきずっていたり。単にCGやモーションが美しいというだけではない、いわば世界の描写 なのである。異様なる世界の中で、なんだか青雲大志を抱くという感じの、なぜか大時代なストーリーを追っていく持続感には、身体を動かすことへの、あまりにも単純な肯定感が下地になっている。ストーリーの後半(ディスク3枚目)で飛び込むことになる、港湾作業のアルバイトの退屈さ、気づまり感には、みごとな <リアルさ> が漲っている。異化された現実を意識することから、その現実の中で生きていくことへと、「シェンムー」は青年期の始まりの、謂われのない高揚感に満ちている。

 多種多様な顔を持ち、多種多様な意志を持つもの、あるいは、その表情からその意志を計り切れぬ ものとは、「他者」である。世界は「他者」である。(青年は荒野に立つ。)「他者」とは、コンピュータにとって、無限の分岐を持った複雑性として現れる。

   主体に生じる倫理性

 複雑性を処理する方法としての「フレーム理論」とは、与件としての複雑性=多種多様性を、幾つかの文脈へと分節化し、統制することである。あらかじめ決められた枠組み(フレーム)の範囲内で、必要な情報を取捨選択すること。枠組みの決定と、枠組みによる情報の取捨選択。「有用」な情報をあらかじめコンピュータに指示することが「フレーム理論」の眼目であることになるだろう。

 ある意味で、フレーム(枠組み)は複雑性を縮減する。あるいは、フレームは世界に対する統制原理となる。しかしその場合のフレームは、必ずしも正解を与えてくれるもの(プログラム)ではなくなっているだろう。有限である存在が、無限である世界に対してある行為を行い、その行為の結果 に対して責任を負うときに主体が現れる。その行為が正当であるか否かに関わらず、その結果 に対しての責任を負う者に倫理が生じる。しかしそれについて考えることは、「シェンムーの世界」を既に逸脱している。