turn back to home


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   AIの世界でとなえられているアポリア

ある夜、私たちはCGアーティストの原田大三郎を囲んで、原田氏のゲーム論に耳を傾けていた。共通 の知人の学芸員はゲームをテーマとした展覧会を企画しており、原田氏に個人的なアドバイスを求めている。

原田大三郎は、つい最近、鈴木裕を訪ね、『シェンムー』に使われる予定のアルゴリズムの幾つかを見せてもらったという(発売前のことだ)。そこで起こっていたことを手振り身振りを加えて説明しながら、興奮気味に原田大三郎は、鈴木裕さんこそ天才だ。世界一だと、絶賛して憚らない。

そこでは、天気が見る見る間に変化する。好天の風景があっという間に曇り、いつの間にか雪が降り始め、あたりは一瞬にして銀世界へと変わる。主人公が町を歩く。自動販売機の前に立ち止まる。自動販売機は単なる背景ではない。コインを入れれば、ジュースが出てくる。主人公がくぐり抜けなければならない九龍城の果 てしない部屋部屋。ひとつひとつの部屋は、実はあらかじめ作り込まれた部屋ではなく、部屋の扉を主人公が開けた瞬間にそこに生成される。部屋生成のアルゴリズムが存在し、部屋がスイッチを入れると生成するのだ。『シェンムー』の世界の中で、世界は生成している。主人公が動くのと歩を同じくして、生成されていく。

「フレーム問題」は、人工知能(AI)の世界でとなえられているアポリアである。これを乱暴に解説してしまうと、人間には簡単に判断し実行することのできる作業が、人工頭脳を持ったロボット、つまりはコンピュータのプラグラムによっては何故可能でないのか、という問題である。コンピュータのプログラムは、「現実」のなかで、ある特定の行為を実行するときに、様々な「与件」に遭遇し、それらの「与件」の中から、行為の実行に必要な情報を選び出すことに事実上無限の選択を迫られることになり、ループに陥ってフリーズしてしまう。

   「いい芋虫」と「悪い芋虫」

では、人間は、このループをいかにして回避することができるのか。マーヴィン・ミンコフスキーはそれを、人間は判断に必要なフレームをあらかじめ有限なパターンとして経験から持っており、状況に応じてそのフレームを当てはめて判断を行う。そのフレームに無関係な与件は無視するということを行っているからだと考えた。これがミンコフスキーの「フレーム理論」である。したがって、そうしたフレームをあらかじめプログラム化しておくことによって、「フレーム問題」は解決するはずであると。

「フレーム問題」を理解するためのひとつの例題を考えてみることにしよう。「いい芋虫」と「悪い芋虫」というひとつのゲームである。問題の提出者は、「いい?、これがいい芋虫だよ。」とある身振りをしながら解答者に例示する。そして「これが悪い芋虫だよ。」と今度は「悪い芋虫」の例示をする。こうして何度か、「いい芋虫」と「悪い芋虫」の例示をして見せてから、「じゃあ、これはいい芋虫?」とか「いい?、これはどっちの芋虫?」とか解答者に問題を出す。

解答者は、たいていの場合、例示されたものが「いい芋虫」か「悪い芋虫」か区別 することができず困惑してしまう。

このゲームのミソは、「いい芋虫」と「悪い芋虫」を区別 するものが、例示の際の身振りにあるのではなく、質問の冒頭に「いい?」と尋ねられるかどうかによるというところにある。そう分かってしまうと、この手のゲームには、パターンとして幾つかの種類が存在することが知れる。

この問題を、コンピュータのプログラムに考えさせるとしてみる。コンピュータがこのクイズに解答できるかどうかは、単純である。コンピュータが、ゲームの理屈にそって「いい?」という呼びかけに反応するようにプログラムされていれば、コンピュータは解答する。当たり前の話である。コンピュータが、この種のゲームのパターンを理解し、当該のゲームがそのパターンに当てはまるかどうかを判断できたとした場合、コンピュータはゲームに解答できるかもしれない。

しかし、いったいそもそもコンピュータはそれがゲームであるかどうかを判断できるだろうか?ゲームであると判断できたとして、何がゲームを構成する要素であるかということを判断できるだろうか?

そもそも、「いい芋虫」のゲームを、人間が解答できるとは限らないのである。それは、解答者の人間が、ゲームを構成している要素を見落としているからである。ゲームのフレームを理解することができないからだ。

▲このページの先頭へ