テレビのニューズ番組を見ていたら非常に不愉快な気持ちになった。それは以下の会見に関する報道であった。
牛海綿状脳症の牛肉を使った牛丼が食べられないという理由で暴力沙汰を起こすようなバカがいる一方、消費者の食に関する関心がかなり高いレベルになっているのも事実で、ことに鳥インフルエンザは正体不明の不気味さもあいまって不安を煽っている。なにしろウイルスは目に見えない。
この事件では、昨今よく言われる危機管理や企業コンプライアンスについての意識の低さが一番の問題なのだが、そんなことは今更言うまでもないことであり、筆者を不快な気持にさせたのはこの浅田農産のマヌケぶりではない。
記者会見で展開された報道記者の正義の味方ぶりこそが、筆者を不快指数200%にさせた元凶である。その実態は報道という名を借りた単なる弱い者いじめでしかない。
浅田農産のマヌケぶりを根掘り葉掘り詰問したところで今更、事態が好転するはずもない。高病原性鳥インフルエンザは今のところ、具体的な予防対策がなく、養鶏業者であれば誰もが被害者になり得る。その意味では浅田農産も被害者であり、二次感染を防ぐための具体的な対策の立ち遅れは非難されるべきではあっても、まずは気の毒な話なわけだ。
ハッキリ言って、浅田農産に再浮上の目はないと断言できる。反権力といった気概は完全に放棄し、利権と結びついて体制に不利な記事はすぐさま握りつぶすくせに、死に体になった相手なら平気でさらに追撃出来るのがマスコミの賤しい本質なのだ。
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といった原稿を書いていたら(3月4日現在)、恐れていたことが現実になってしまった。会長を殺したのは、奴ら正義の味方気取りのブンヤ(侮蔑の意味を込めてこう書く)であると断言していい。鉄面皮の筆者もこのニューズには泣けた。死を選択する他、仕方なかった人間の気持ちとは、いったいどのようなモノであったのかと… 今回は引用ばかりの原稿となるが、このニューズそのものが一つのドラマであると思うがゆえである。諒とされたい。
なお、この自殺事件の後、浅田農産に対する批判的な記事・論調が急速に鎮静化したことを追加しておきたい。例えば、京都・丹波町、園部町あるいは大阪・茨木市で発見された鳥インフルエンザに罹って死んだカラスに関する記事に、浅田農産との関係性を指摘したものが驚くほど少ないことは、摩訶不思議な現象である。結局、日本のマスコミが如何にその場限りの安っぽい正義感で行動しているのかを如実に示す出来事であったと言えよう。
浅野健一氏が書かれた『犯罪報道の犯罪』('87)『新・犯罪報道の犯罪』('89)から状況は何一つ変わっていない。
●日本の閉じたマスコミにあって存在そのものが事件であった『ウワシン』が、休刊する。
休刊そのものは、編集長の岡留氏が身体の動くうちに沢木耕太郎したいという個人的な欲求が原因ということになってはいるが、実際には訴訟費用の負担が膨大であったことや、ウワシンそのもののキャラクターがもはや“2ちゃんねる”に代表される便所の落書き的BBSサイトにその役割をバトン タッチしたという見方が的を得ていると感じる。出版という形態そのものが、インターネットの機動力を凌駕出来ない限り、出版物は永久に敗北し続けるしかない。
●本誌ではこの休刊号に向かって表紙でカウント ダウンを行うなど休刊に向けて用意周到な戦略・戦術を展開し、この時期に発行された増刊号、本誌バック ナンバーをことごとく売り尽くし、見事なまでの散り際を演出して見せた。
●この最終号が意外と淡白な印象に終っているのは残念だが、3月下旬に別冊による最終号が控えているので、これこそが最大の見せ場なのかも知れぬ。またその後も本誌連載の単行本化ラッシュが続くので、実際、夏頃まではこの狂騒も収まらないのではなかろうか。
●ところでタブーなきマスコミを標榜していた『ウワシン』の撤退は、これからの日本にどのような影響を及ぼすのであろうか? 私見ではあるが実は何も変わらないのではないか? という気がする。それほどまでに日本はまだまだ眠く、正義は地に落ち、真実はドブに捨てられているのである。そのことに自覚的な人々がどれくらい生息しているのか? これもまた筆者の知るところではない。