彼女の名前を一躍有名にした初期ヒットの「ここでキスして」。その破天荒なべらんめえ節のヴォーカルも手伝って、彼女の存在は筆者の中にダイレクトにグサッと入ってきたのだが、何故そこまで印象に残ったのかと言えば、それは歌詞の ♪ 現代のシド・ヴィシャス〜 ♪ というフレーズに尽きるのである。
彼女の年齢からして、セックス ピストルズをリアルタイムで聴いていたとか、シドとナンシーの凄惨なラヴ ストーリーを知っているとはとても思えない。彼女達の世代にとって、シドもすでに伝説上の人物になってしまったということなのだろう。
パンクもタダの音楽スタイルの一つに過ぎず、もはや生き様を投影するようなものではない。林檎もスタイルとしてそれを踏襲しているに過ぎないのだが、彼女の場合、戦略として見事にハマっていて、そこが的確に筆者の興味をあおったということなのだ。
シド・ヴィシャスの名前を聞くと筆者は、いつも物悲しい気分になる。それはアレックス・コックスのB級映画のワン シーンを必ず思い出してしまうからである。
'76年、9月にロンドンの 100クラブでデビューしたセックス ピストルズは、当時の社会情勢に不満を持っていた若者に圧倒的な支持を受け、瞬く間に時代の寵児へとのし上がった。正にピストルズの歴史こそパンクの歴史なのだ。
ベース担当のグレン・マトロックが、ビートルズのファンであったという、何だかよくわからない理由でクビになり、代わりにピストルズの熱烈な親衛隊の一人であったシド・ヴィシャス(極悪人シド)が加入することで、幻想として存在したあるいは洒落で演じられていたパンク バンドは、本当の意味での不良少年バンドになってしまった。こうなれば、後は崩壊するしかない。自明の理である。しかし、ベースを一切弾けずにここまで有名になったミュージシャンは後にも先にもシドくらいのもだろう。
映画の終盤で、パンクがムーブメントとしての終わりを告げ、その役割をレゲエへとバトン タッチする頃のエピソードが描かれる。夕暮れの廃墟のような場所で、シドが何人かのストリート キッズ達とぎこちなくレゲエを踊るシーンがあるのだが、薄闇の中でだらしなく踊られるそのシルエットのなんともうら寂しい感じこそ、実はこの作品でアレックス・コックスが描きたかったことのほとんど全てという気がするのだ。
パンクの象徴的存在であったシドが、その地位を放棄しオイダンスではなくレゲエをぎこちなく踊るシーンは、正に諸行無常の響きありといった侘び寂びの極致である。
すでに死んだはずのナンシーの乗っているタクシーにシドも嬉々として乗り込み、タクシーが去っていくシーンで映画は終るのだが、これは二人が2度と帰らぬ死出の旅立ちをしたことを示唆している。
『シド アンド ナンシー』(英 '86年 「Sid and Nancy」)
監督:アレックス・コックス 音楽:ジョー・ストラマー ザ・ポーグス
出演:ゲイリー・オールドマン クロエ・ウェブ
2004年5月17日号掲載
▲