●2003年8月25日
NO WARは
今から始める
しかない

text/ 護法 → キムチ


 

 誰も、終ったと言ったわけではない。大統領ですら言っていない。それなのに、誰もが終ったような顔をしているのはどういうわけだろう。
 福田和也が 「en-taxi」の02号で柄谷行人と対談してる中で、イラク戦争による死者が比較的少なかったのはアメリカの軍事テクノロジーの高度化によるものだと指摘し、これからの戦争は大量殺戮を伴わないものになっていくかもしれない、だから「人を殺すのはよくない」という生命尊重の立場からの反戦は成り立たなくなるかもしれない、といった発言をしている。しかしこれは平和ボケした愚論である。
 そもそも、戦争に大量殺戮が伴うようになったのは、近代戦争になってからだ。それ以前の「帝国」の戦争は、相手国の政府と軍隊を潰せばよいのだから、住民の虐殺が起きたとしても副次的なものであった。しかし近代戦争は国民国家同士の戦争であり、「国民」を殺すことそのものが目的になっていく。その戦略的な表現が「総力戦」であり、それを純粋に形象化したのが核兵器である。
 イラク戦争は、フセイン体制打倒を第一の目的として遂行された。日本が負けたとき「国体は護持された」とされた、その「国体」を潰すことが優先されたわけだ。それが比較的少ない(?)犠牲で達成されたのは、フセインが十分に国民を総力戦に向けて組織化できていなかったからであろう。しかし、政府機構が潰れたからといって、そのままですむわけがない。抵抗と殺戮は政権崩壊後に「掃討戦」という形で起こるし、現に起こっている。 
 福田和也が何を見落としているか。ひとつは、フセイン体制が崩壊したからといって戦争は終わりではなく、むしろその後の掃討戦のなかに戦争の悲惨さが隠れているということだ。報道されないため見えなくなっているだけである。
 もうひとつ、国民国家が続くかぎり、総力戦とそれに伴う大量殺戮はこれからも起こり得るということ。いくら軍事テクノロジーが洗練され、繊細なピンポイント攻撃が可能になったとしても、例えば権力者が国民を動員して、目標となる軍事施設の周りに「人間の盾」をつくれば、人を殺すことなしに攻撃することは不可能になる。 
 そしてもうひとつ。核の存在を見落としていること。大量殺戮以外には何の役にも立たない核兵器をもつことが、戦略的に相変わらず大きな意味をもっているのはなぜか。その視点がすっぽり抜け落ちている。(もっとも、核兵器というのは「使わないことによって威力を保つ」という奇妙奇天烈な兵器なのであるが。) 
 こうしたことを考えれば、今、反戦運動を止めてしまうことほど間抜けなことはないと思う。NO WARは今ここから始めるしかない

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2003/09/01