●2003年9月1日
絶対的平和主義
と無差別主義

text/キムチ → 護法


 

残念ながら 「en-taxi」02号の福田和也と柄谷行人の対談を読んでいないので、福田和也がどういう文脈で発言しているのかは分からないが(読んでいても福田和也の真意なんか分からないかもしれない)、武器性能の向上によってピンポイントで敵を攻撃できるようになったことが戦争をめぐる評価に新たな局面を加えることになるかもしれないと彼は言っているのだろう。それは端的にいえば、非戦闘員である住民を戦争に巻き込むことが限りなく少なくなっていくことによって、戦争への無差別性や非人道性といった非難が当たらなくなることの可能性を語っているのだろう。

しかし護法氏が言うのには、いかに武器性能(軍事テクノロジー)が向上したところで、近代戦争の無差別性(そして非人道性)は、その定義からしてなくなることはないということなのだろう。事実イラクにおいて「大規模戦闘」が終結した今日も殺戮は継続しているし(注1)、近代戦争において国民が動員される限り彼らは際限なく標的とされつづけるであろうし、そして核の存在はいまも脅威でありつづけているから、と。

繰り返して言えば福田和也の意図は理解できないが、いまここで問題としていることの意味合いは少しだけひも解いてみたい。

加藤尚武の『戦争倫理学』(ちくま新書)によれば、戦争倫理学(この言葉自体はさしあたって加藤尚武が掲げるものだ)の基本的な枠組みとして戦争目的規制(開戦条件規制 jus ad bellum)と戦争経過規制(戦時中規制 jus in bello)の二つがあげられる。戦争を始めても良いとされる条件を規制するものと、戦争が正しく行われているかどうかを規制するものの二つである。当然のことながら戦争倫理学は戦争の存在を前提にしている。そのこと自体をどう考えるかがひとつの踏絵となるだろう。加藤は戦争の存在自体を否定する考えも含めて、戦争についての態度を表明するための学問を「戦争倫理学」として提示しようとする。

事実、戦争目的規制に対する立場として、以下の三つの態度があげられている。 すなわち絶対的平和主義、戦争限定主義、無差別主義の三つである。
「絶対平和主義というのは、自己の安全を保持するための自衛権を放棄し、いかなる軍事行動も行うべきでないという考え方である。戦争限定主義というのは、すでに起こってしまっている戦火を静めるための軍事行動だけは認めようという考え方である。無差別主義というのは、戦争は主権国家の固有の権利であって、それを規制するいかなる規制もありえないという考え方である。」
絶対平和主義を良く表わしているのは他ならぬ日本国憲法の理念である。戦争自体の存在を否定なり放棄なりしようという考え方は、この絶対平和主義という立場の中に入れられるだろう。加藤は加えてこう解説している。
「絶対的な平和主義者から見れば戦争限定主義者は条件付きで戦争を肯定しているのだから、無差別主義者と同じ過ちを犯している。絶対平和主義者は、戦争限定主義こそが、絶対的な平和主義を実現する近道であるということを認めることができない。」
加藤の立場は戦争限定主義であると言ってよいだろう。

一方、戦争経過規定(戦時中規定)の中でもっとも永い歴史を持つ条項が「非戦闘員の殺傷禁止」であるという。この条項は
「戦争の中心的な形態が、王侯・貴族が傭兵をやとって行う大規模な決闘のようなものであった時代には、「戦争に一般の国民を巻き添えにするな」という、戦闘の場から国民を隔離する条項として機能した。徴兵によってすべての国民が常備軍に加わる時代になると、兵士としての国民と兵士でない国民とのあいだに境界線をひいて、非戦闘国民を安全な圏に囲っておくための条項となった。」
第二次世界大戦がはじまった頃にはまだ、非戦闘員の殺傷を行うからという理由で、空爆はきびしい非難の対象となっていたのだ。

そのことを表わしているのがゲルニカである。

「スペイン・バスク地方の古都ゲルニカ(Guernica)は、一九三七年四月二六日、ドイツ(コンドル軍団)とイタリアの航空隊ニ四機による空爆を受けた。これらの爆撃機は合わせて約二六トンの爆弾を投下した。(中略)この軍団は、ヒトラーがフランコ将軍支持を目的としてスペイン内戦に参加させた組織である。前年七月に始まったスペイン内乱では、共和国政府側をソ連とメキシコが支援、反乱軍側をドイツとイタリア両ファシスト国家が支援していた。」
「コンドル軍団の飛行士たちは(中略)、市街の大部分を破壊してしまった。ヨーロッパの都市が初めて空爆で壊滅した。この爆撃で、市で最もにぎやかな中央広場はもちろん、町の七割近くが破壊され、一般住民七〇〇〇人のうち約一六〇〇人が死亡、約一〇〇〇人が負傷した。死者の数は実は二五〇人との説も残っている。」
「反乱軍側は、政府軍が自ら行った爆撃だと決めつけたが、これに対して政府と海外の報道は、反乱軍側とドイツ空軍による蛮行と主張した。バスクの血をひく画家ピカソは、二八日夕刻、パリでこの惨事を知った。彼は故国の悲劇、ナチスの暴虐に憤然として大作「ゲルニカ」を描き、六月四日に完成させる。」

しかしながら、第二次大戦の総動員戦的な経過の中で、総力戦を終結させるのに有効であるという理由で、空爆が許容され、その極限的な形が原爆の投下となった(爆撃で投下される爆弾が空を切る音は、戦争を表現する典型的なイメージだ。そしてキノコ雲)。いまや
「アメリカ軍が同時多発テロへの報復として、アフガニスタンに空爆を行うとき、もはや空爆は戦争終結の不可避の手段ではなくて、制空権を含めて圧倒的な軍事力をもつ側(米軍)の基本的な戦術という新しい意味を帯びるようになっている。」

こうした文脈から見た場合、アメリカが戦争を始める理由が妥当であったかどうか(戦争目的規制)は一旦おくとして(もちろん絶対平和主義のみならず戦争限定主義の立場からしても、アメリカの参戦を正当化することは困難だ)、その方法論、とりわけ空爆という戦術の妥当性(戦争経過規制)において、ピンポイント爆撃は、アメリカを野蛮となじる論法の切っ先をかわす論拠とはなるのかもしれない。そのことにどれだけの意味を福田和也が見出しているのかを判断することはできないし、もし福田がそう語っているのだとすれば勇気ある蛮行だとも思う。

たださしあたって、二つのことを分けて考えてみる必要があるのではないか。戦争自体の非人道性を非難すること(戦争目的規制)と、空爆の持つ非人道性を非難すること(戦争経過規制)の二つである。当面、空爆の非人道性を非難することには異論を持たない。しかし戦争自体の非人道性を絶対的に非難することは絶対平和主義につながるだろう。絶対平和主義は日本国憲法の理念である。しかしおそらく、この理念を保持することは安易ではなく、実は複雑で困難な理論構成を必要とするに違いない。時勢は無差別主義に流されていると言っても過言ではなかろうが、そこで絶対平和主義を唱えることは、補完しあう安定した対立軸をつくることにもなりかねないのではないか。

例えば加藤尚武もこう書いている。
「絶対的な平和主義が成り立つはずがないのだから、無差別主義が正しいというのが、軍事主義に傾くときに鳴り響く町の声である。今回も「反撃は報復ではなくて正義の行動である」とか、「文明の敵に共同で攻撃するのは当然である」というような声が鳴り響いている。絶対的平和主義の声が出されると、しっぺ返しに、無差別主義の声があがる。」
ここで出された対立の構図は、五五年体制と呼ばれた戦後の言説の構造に一致している。それはもうひとりの加藤(加藤典洋)が『敗戦後論』(講談社)で「ねじれ」と呼んだものとも一致する。

(注1)8月31日付けの朝日新聞「天声人語」にはこう書かれている。
「ブッシュ大統領の「大規模戦闘終結宣言」から4ヵ月になる。この間の米軍の死者は、開戦から宣言までの「戦闘中」の 138人を超えてしまった。」
誰もが予想したであろう泥沼化であるが、この死者の数はもちろん米軍の死者数に過ぎない。

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