●かつては「親の顔が見たい」という言葉があった様に思うが、この言葉も死語化したのではなかろうか。 今の時代の気分でいうと、 どちらかと云うと 「親の顔も見たくない」という様な時代なのかも知れない。 「あんな奴の親の顔なんか見たくもない」か。

●小拙などはまだかろうじてその親の世代なので、まだ他人の親の顔が見たくなる年頃でもないのかも知れない。自分の子が成人でもすればふとそう思うのだろうか。

●今は不良が分かりにくくなっているという。例えば1970年代であれば、「私は不良です」というのは誰がみても分かった。ガクランであったり、リーゼントであったり、鎖鎌であったりヌンチャクであったりという「記号」が万人を安心させた。ソイツらにだけ係わらなければ良かったのだから。

●今の時代の気分は、見た目で不良かどうか分からなくなったが、そういうのが一番質が悪い。結果的に不良的な奴の親の顔に想像がつく様な気がする時代の空気。仕様も無い奴の親はやっぱり仕様も無い親ばかりの時代。親の顔が見たかった時代は、実際に本当に見てみたら意外な玉が出ることがあったのではないか。だから見てみたかったのではなかろうか。「積木くずし」あたりのことを指せば妥当なのだろうか。

●選挙権は一応一律の権利として存在するが、被選挙権もほとんど誰でも得られる権利。弁護士になるのに司法試験があって一般的に六かしいとされている。国会議員や代議士になるのにはほとんど何のハードルもない。少なくとも弁護士並のそういうセレクト制度は要るのでないか。ひょっとしたら被選挙権も選挙権も試験制度の方が良いのかも知れない程の世間の寝乱れ模様ではある。

●芸人やらスポーツ選手に政治ができる筈がない。普通、芸人や選手が政治をやる必要はない。政治に手を染めたということは、もう芸人でも選手でもないのだろう。横山やすしは西川きよしに殺されたようなものだ。プロレスラーに政治家が出来て、政治家がプロレスラーになれないのは、政治よりプロレスの方が上位のもの、ということではないか。

●選挙の度に出馬要請される桂三枝が「あんな奴は弟子じゃない」と言いたくても本当に弟子だから仕方なくしている桂三発が現在町会議員なのも、近年稀にみる辻褄の合致度である。

●試験も資格もなく(あるか)子供さえこしらえれば、親になる。親は無くても子は育つのだから、変に関与する位であれば何もしないで他人まかせにする方が子供のためなのかも知れない。

●小拙の独自調査では、小便後の手を洗わないおっさんは七割で、路上煙草の九割はポイ捨てである。街頭であんなに大量にティッシュをタダで配っているのに、痰をティッシュに取る大人を見たことがない。部長クラスの大きなゲップ・アクビは日常に見る。マナーもエチケットもへったくれもないのである。

●「せっけんで手を洗いましょう」ということと「あいさつはきちんとしましょう」「ごみはごみ箱にすてましょう」ということは幼稚園で習う。幼稚園は義務教育ではないから行く必要はない。小学校ではそんな基本的なことは、教師がちゃんちゃら可笑しくて教えてもらえなかったんだな。そうとしか考えられない。


▲page top

turn back to home | 電藝って? | サイトマップ | ビビエス

まだいまだ p r o f i l e