●昭和二十年代に大流行したという、「きいちのぬりえ」の「きいち」というのが凄く気になっていた。最初は何のことか分からなかった。1997年に小学館から『わたしのきいち』という本が出た時に購読し、蔦谷喜一という人の名前を初めて見た。

●驚いた。「きいちのぬりえ」というのは、半世紀以上前のレトロでノスタルジックな代物で、風俗展などでは必ず紹介される生活文化史上のものであった。「きいち」は「喜一」で、作者の蔦谷喜一さんが存命であるなんて思いもよらなかった。小拙は大変に驚いた。

●勿論ぬりえは少女たちのものであったし、昭和三十五年生まれの小拙が駄菓子屋の常連だった頃でももう既に店頭から消えていた様に思う。少女たちのコーナーに似たものはあったのかも知れないが。

●ぬりえは戦後すぐにブームになって、爆発的に売れた。本来であれば今頃億万長者となって「ぬりえ御殿」でも建てて住んでいてもおかしくない程の売れ行きであった、という。 亜流も多数登場した。 「フジヲ」「ひでを」「まつお」など、「きいち」に合わせて三文字名の作者ばかりであったが、売れるのは「きいちのぬりえ」であった。

●喜一さんは貯金などせず、次々と健全な(?)道楽に費やしたので、御殿は建てていない。小拙はそこが偉いと思った。金は貯める為にあるのではなく、使う為にあると思うからである。御殿は自分に似合う、と思う人が建てればいい。

●その時分に都内で、道楽で教えていた舞踊の生徒さんの中に、北野武のお母さんの顔も見える。『わたしのきいち』でも紹介されておられる。「まさる」や「たけし」の話を良く聞いたそうだ。

●昭和40年代になって、テレビや他のレジャーの普及によって、ぬりえは廃れた。自分で描かずに塗るだけでは、絵が下手になるという見解で、ぬりえを禁止したPTAもあったという。本当にぬりえは絵を下手にするのだろうか。

●小拙はバイト先の仕事にかこつけて、喜一さんに手紙を書き、電話をした。電話口に奥さんが出られて、ご本人が出た。家に行けば会っていただけることになった。奥で犬の鳴き声がしていた。

●大正三年生まれの喜一先生は背筋が通り、茶のベレー帽の矍鑠とされた方であった。埼玉県春日部の閑静な住宅街の一角で、マサ夫人と愛犬ミッキーと暮らしておられた。外出はせず、一日三回の愛犬の散歩が日課である。

●喜一先生がそれを見て画業を志すことを決定づけた、山川秀峰の美人画の複製が額装され、壁に掛けられていた。腰のしなり、着物や帯の色、そして柄が際立って美しく、バランスも良い。

●喜一先生の作品は様々なところで勝手に取り上げられる事も多いが、基本的には小学館と契約されており、先方の諒解を得て、小拙はこれまでに描き下ろしを都合三点、講演会と作品の転載を夫々一度づつ依頼した。

●先生の作品は、日本画の世界では常識なのか、紙にではなく絹に描かれる。面相筆に顔料を付け、細密画の要領でゆっくりと描いてゆかれる。画面の中で完成された少女が生きている。

●ここ十年程外出をしていない喜一先生に、神戸で行う講演会の講師をお願いした処、存外にも前向きなご回答を得た。目標があることは良いことです、と仰っていただいた。孫娘さんと『わたしのきいち』共著者の上村さん、そして小学館のEさんもご一緒に、一泊二日で来神していただけることとなった。

●喜一先生は、その時に新幹線に乗ったのが二十年ぶり、神戸に来たのは65年ぶりである、とのことであった。その講演は素晴らしく、上村さんが聞き手となって、スライド写真や作品の現物を見ながら、これまでのことやこれからのことを話された。

●講演することが決まってから、これまで以上に規則正しい生活と、各種ビタミン剤などを用いて徹底した健康管理体制を敷かれたという。好物のポッカのテーブルレモンも二日で一本飲み干す勢いで摂取された。

●講演の前後に、65年前の大阪や神戸の話をお聞きした。心斎橋に居たサンドイッチマンの「チャップリン」さんの話や、沖仲仕の仕事を受けたが、忠告を受けて行かなかった話などが今となっては笑い話で話された。神戸・三宮をタクシーで通った際の景色に見覚えがあられたが、それは国鉄の高架下辺りの斜面であった。

●その時の関西行きは「モボの放蕩家出」だったのであるが、色男の喜一先生は、単に見聞を広めただけで帰京したのであった。沖仲仕に行かれていたらどうなっていたことやら。

●喜一先生の姪の金子マサさんが、荒川区の実家を改造して「ぬりえ美術館」を開館されておられる。そこでは「きいちのぬりえ」だけでなく、往時流行したぬりえを引き出し式のユニークな閲覧方法で見せる。

●そこには「きいちのぬりえ」式の他の作家のものも多数あり、小さいが奇特な個人美術館である。しかし、どれも良く似た作風ではあるのだが、「きいち」のものだけが少女に生命がある。目が生きて輝いているし、画面の中で少女が動いている。

●他の作家のものが亜流であるからという思い込みや、「きいち」作品を贔屓眼で見ているという側面を差し引いても、相対的に鑑賞すればそうであることが分かる。技量の違いなどというものはほとんど無い。絵というものに対する与し方の違い、という以外に無い様に思う。

●喜一先生は現在も現役で描き続けておられる。今は童女シリーズと美人画シリーズの集大成に向けて取組中である。特に童女シリーズは百態を目標に、ぬりえではない少女の姿を活写されていて新鮮である。

●喜一先生は件の講演会で、日常生活を送る上で一番大切なことは、という司会者の質問に対し、「人に対する思いやりと優しさ」であるとお答えになった。世事全般に「思いやりと優しさ」が皆無のこの時代に、改めて至言であると云わざるを得ない。


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