●2月15日に行われた「ごかいらく落語の会」なるものを聞きにいった。落語というものは聞きに行くものなのであろうか。小拙は毎晩CD+イヤホンで、落語を聞きながら寝る。大抵は落語がひとつ終わるか終わらないかの所で本寝に入っている。耳だけで聞いている場合でも、落語家の所作を想像しながら聞いている。不眠時でも延々聞いている内に寝ているという寸法だ。先日i-pod なる魔法の箱を買った。20ギガで、楽曲ならば4000曲入るという。落語が幾つ入るのか。楽しみである。

●落語家は座布団に正座しているので、顔の向きや表情、上半身、扇と手拭いで全てを表現しなければいけない。それでも伝わる、ということはそうした演技も大事であって、単なる話芸ではない、ということになる。ということは「聞きに行く」というのは誤りで「観に行く」が正しいのかも知れない。

●落語家が登場人物の成り立ちや現在の状況に成りきって演じることを、「ハラ」というらしい。四代目林家染丸の『上方らくご歳時記』(燃焼社)で知った。「ハラ」は「腹」のこと。こうした一人芝居付き話芸は、世界的にみても珍しい。

●耳の聞こえない人の為に、桂福団次の「手話落語」や林家染丸も出る「吉本字幕寄席」がある。演者の所作は見えるが、内容も目で見る。目の不自由な人は通常の落語会に行って、声や音を聞く。両方駄目な人にはモールス信号か。

●件の「ごかいらく落語の会」は、落語作家の小佐田定雄と弟子のくまざわあかねの新作落語を気鋭の落語家が披露する会。桂吉朝が背広で演じた携帯電話もの(「長尾さん」)は、中々面白かった。生で見たくまざわさんは、テレビで見るよりも一層痩せ細っていた。やはり昭和十年生活が響いたか。

●電話を使った噺では『電話の散財』というものがあり、今では林家染丸と弟子の林家花丸君しか演者がいない珍しいもの。小拙は3月1日に花丸君の演じたこの噺を聞き、そこから得た直観で『金髪タッグマッチ』という落語を書いた。なんじゃそりゃ。

●「ごかいらく落語の会」ではSF作家のかんべむさしがゲストで、桂九雀と対談した。大阪出身で高校の時に落研を創部させ、今でも落語家との交流が多い。昔から作家と落語は縁があるようだ。小松左京とか筒井康隆とか。

●最近では泡坂妻夫の『泡亭の一夜』(新潮文庫)や田辺聖子の『おせいさんの落語』(角川文庫)を読んだ。かんべ氏も指摘されていたが、面白いかどうかはともかく、落語にするのが中々難しいようだ。小佐田さんの作品は、とにかく全部落語になっている所が凄い、と。田辺氏のものは、全て面白いが、完全な落語にはなっていないと思う。少なくともそのまま高座にはかけられない。

●落語は普通、全て会話で構成される。そのやりとりの中から全ての情景や人物を描写するのが良しとされている様だ。桂米朝は、少し位は地の話(ト書き的な話)があった方が良い、とされているのを読んだことがある。

●中々微妙な問題であるが、会話で主構成される芸であることには間違いがない。全てを会話に押し込めようとして無理が生じるのであれば、小拙も地の話は可としたい。上方落語は噺によっては見台、膝隠し、小拍子を使用するが、そういう小道具の演出で場面転換をどう表現するのか、という点に於いて東西の違いもあるのかも知れない。

●上方落語には「ハメモノ」と呼ばれる、噺の中に入ってくる下座囃子もあり、「三十石」や「愛宕山」、「地獄八景」などにその典型が聞ける。「皿屋敷」などでは、「そこへ差して幽霊お菊が出てきよった」とたんに「どろどろどろどろ」と長い桴で太鼓が叩かれて演出をする。

●その際の「そこへ差して云々」というのは、落語家自身が観客に説明をしている地の文言である。もしくは大きな独り言。観ている方にとっても下座にとっても判りやすい表現方法であると思う。桂米朝の真意は図りかねるが、落語が観ている方の創造力にまかさざるを得ない芸である以上、ある程度の演出的表現はあった方が良いように思う。

●丸山健二の『まだ見ぬ書き手へ』(1994年・朝日新聞社)の中では、彼の考える最良の小説というものは、極力会話文を避けて地の文章で表現されることを佳しとする、ということが書かれてあった様に思う。それはそれで苦しい様にも思う。

●『上方らくご歳時記』には、落語家の修行の様子も教えて呉れていて、師匠と弟子が向かい合って座り、口頭で教えてゆくそうだ。テキストなどは無い。古典落語はその様に覚えてゆくものだそう。芸事は概ねそういうものなのかも知れない。

●その他、山田洋次の落語集『放蕩かっぽれ節』(ちくま文庫)も読んだ。古典落語の焼き直し的な佳作であった。堀晃という作家も落語との縁が深いという。

●永瀧五郎作の「除夜の雪」という落語を桂米朝が演じる。冬の怪談の代表的な作品だと思う。寺の家に生まれた氏ならではの作品で、永瀧氏の『市岡パラダイス』(講談社)にも落語「除夜の雪」が生まれた経緯があって、興味深く読んだ。作家は作家でも放送作家のなせる技なのか。

●現在では専業の落語作家は小佐田氏とくまざわ氏の二名のみだという。よっぽどの才能でないと糊口を凌げないものと見る。


▲page top

turn back to home | 電藝って? | サイトマップ | ビビエス

まだいまだ p r o f i l e