●テレビ番組の是非は視聴率で測られる事が多い様に思うが、量的に多数なものが良質か否かという判断にはならない。多数決意見が正しいということにはならないのと同じに単にその意見が多いというだけの話である。

●政治の世界でも国会で意見を通すには多数決で決済をする。為政者や代議士を選出する選挙も多数決で選ぶ。政治が悪いのでも国が悪いのでもなく、我々国民の民度が低下しただけの話である。

●少数決という決め事をした際には、不平不満とする者が多数であるので、それが正しいかどうかは問題ではなく、不平不満に感じる者をできるだけ減らす作業というものが近代以降の政治の姿である。

●多数決を正とするのは、国民を信頼しているからなのであろうか。国民になることに対して試験があるわけでもない。日本に帰化した人達の方が安全率が高いのは当然である。

●テレビ出演者やテレビ制作者の話を聞いていると、例えば視聴率が10%あった時に「日本人の1,000万人以上の人が見た」と云う場合がある。

●何故そんなに短絡的なのか。絶対そんな数にならないのは猿でも判る。日本国民の全てがその係る時間帯にテレビをみている訳ではないのであるから、土台そのように考えるのは間違っているように思う。

●視聴率はニールセンやらビデオリサーチという専門の業者が、特定の家庭の受像機に機械を取り付けて測っている、というのは以前から聞いて知っていた。今はニールセンがこの業務から手を引いていると辞書に載っていた。良心が芽生えたか。

●視聴率は僅か数百世帯のサンプルを基に、割り出すそうである。サンプル数が少なくても「良く混ぜられたものはどこを抽出しても同じ」なので、サンプル数の多少は本質的な問題ではない、と業界は主張する。何をもって良く混ぜられた、とするのか。

●選ばれた世帯主は、自分が視聴率対象家庭であることを絶対に他言してはいけない。視聴率は番組の広告主を得たり、継続させたりする際の最大の武器であるから、慎重に取り扱われている。

●僅か数百世帯のそういう絶対に口の堅い、品行方正な世帯主と、その一家が視聴しているものを鵜呑みにしても良いのか。仮にサンプルが 500世帯であれば、50組の家族が同番組を見ていれば「1000万人」となるのは、どう考えてもちゃんちゃら可笑しいのである。

●デズニーランド(ディズニーとも云うらしい)の中で鼠の着ぐるみに入って演技している職員はイメージが悪くなるので、他所で他言してはいけないそうだ。件の鼠以上に有名になれないのは判っているから躊躇無く受容できるのであろう。

●視聴率家族はそのサンプル期間の2〜3年の間に、そのことを守秘しなければ業界から爪弾きの村八分である。しかし、その守秘の真意を本気で理解できるのは、業界にリンクしたファミリーなのではあるまいか。

●しかしサンプルは「良く混ぜられてい」るのであるから、業界の関係者一家などには到底依頼などできない。そんなことをすれば公正さに欠けることになるからである。

●しかし、守秘義務に加えての堅い口である。業界関係ファミリーでないかどうかも我々にはわからないではないか。

●数字になって現れるからといって、それに惑わされてはいけない。平均寿命や平均身長、という「平均」的な数字には統計学上の、或いは白書の上での意味以上の意味は薄い様に思う。

●高視聴率だから良い番組であるということではなく、今後同じような内容の番組が増えるということが判るだけである。デジタル化などを推進する体制側も、国民が自分たちよりも賢くならない様に莫迦なコンテンツを喜んでいる。

●陪審制、参審制を採用しても世の中良くなるようには思えない。弁護士などの法曹界への入り口の質を高める以外にない様に思う。

●視聴率も、寿命も身長も裁判も全て量ではなく質を問いつづけなければいけない様に思うが、身長の質とはどんなものか、と云われても困る。


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