南 方 熊 楠 と 神 島 の 自 然 林

 南方熊楠は、生涯を在野の無位無勲で野学を究めた、世界的な博物学者である。1867(慶応3)年、和歌山市に生まれた熊楠は、1886(明治19)年に東京大学予備門を中退した後、海外で博物学や植物学を独学した。1900(明治33)年に帰国して以後は生涯紀州を離れず、特に1904(明治37)年以降は田辺に定住し、民俗学と植物学の研究や自然保護に没頭した。

 近代日本の黎明期に数々の国際的な業績を残し、柳田国男をして「日本人の可能性の極限」と評させた熊楠の真価は、時空を超えて伝わっている。その現れのひとつが、田辺湾に浮かぶ神島(かしま)の自然林だ。

 熊楠が初めて神島に渡ったのは、1902(明治35)年6月1日であった。14年の外遊を終え、帰朝した2年後のことだ。当日の日記にはこうある。「朝多屋勝四郎来り、共に神島に舟遊、予昨夜の宿酔にて身体しつかとせず、木耳(きくらげ)等少々とるのみ。」(※1

 神島には当時ワンジュ(彎珠)やキシュウスゲ、バクチノキ、タブ、タチバナ、栴檀(楝)、藻類、地衣類、そして粘菌(※2)なども多く見ることができた。はたして、熊楠はこの時に田辺湾の小さな無人島に豊かな植生を見い出したのかも知れない(※3)。神島はその後の熊楠にとって、多種多様な植物や生物を実地で観察することのできる身近な研究フィールドとなり、同時に神聖な心の拠り所でもあった様に思う。

 1909(明治42)年、神島内の弁天社が対岸の大潟神社に合祀(※4)され、森林の伐採が始まった。熊楠は盟友、毛利清雅(柴庵)の発行する地方紙『牟婁新報』などに繰り返し投稿し、里の人々が信心の在り所とした神社を壊す神社合祀令に反対した。特に神島には多種多様な植物の植生があり、生物学的見地からも保護が必要であったのだ。

 国や県が推し進めている神社統合は、無駄や経費を省き伐材益の出る「合利」的な事業ではあるかも知れないが、熊楠はそれが「合理」的かどうかを問うていた様に思う。神社には自然信仰の魂が神となって宿り、また鎮守の杜は多様な生物が互いに共利共生して棲んでいる。熊楠は、これらが身近な自然林環境や事物を尊ぶ心を提供しているとし、神社とその杜を守ることは人の「理(ことわり)」に合った真の合理的なことで、公共的人間の生活には欠かせないものであることを主張したのである。

昭 和 天 皇 の 南 紀 行 幸 と ご 進 講

 昭和天皇は、生物学の権威としても名高く、粘菌の研究にも実績がおありだった。昭和天皇が粘菌の研究を志されたのは、研究者の多い蘭やシダ等の分野を選ばれた場合、一般の研究者に迷惑が掛かる事へのお気遣いからだという。そして昭和天皇は、英国のアーサー = リスター(Arthur Lister)が1906年に発表した『Journal of Botany』誌等に日本・和歌山の「KumagusuMinakata」が採集した粘菌譜が掲載してあるのを読まれていた。あるいは、当時すでに熊楠が常連投稿者となっていた英国の科学雑誌『Nature』も読まれていたのかも知れない。

 1929(昭和4)年、昭和天皇が南紀を行幸される際、「聖上田辺へ伊豆大島より直ちに入らせらる御目的は、主として神島及び熊楠にある由にて」という所信を軍令部長の加藤寛治に書かせられている。熊楠が昭和天皇に進講する事が決定したのである。

 同年6月1日、御召艦「長門」が田辺湾上で停泊し、昭和天皇は神島にも上陸された(※5)。熊楠は、同じ生物研究学者の昭和天皇に、田辺湾の海洋生態系、神島の特長ある植生、そして粘菌などの話をしたとされる。その際に珍しいヤドカリ、海蜘蛛、ウガ(海ヘビ)、地衣などを用意し、粘菌標本110点は、各10点ずつキャラメルの大箱に分け入れて献上した。熊楠の生涯で一番のハイライトとなった日は、奇しくも彼が神島に初めて渡った日と同日のことであったのだ。

 「わが天皇のめでましし森ぞ」(南方熊楠)

 翌1930(昭和5)年、神島は和歌山県の天然記念物に指定され、併せて神島に昭和天皇の南紀行幸記念碑が建立された。南方熊楠が詠んだ「一枝も心して吹け沖つ風 わが天皇(すめろぎ)のめでましし森ぞ」という歌碑である。天皇が来訪された神島の自然を象徴的に守る意味と意義を伝えようとするものであり、自然と対話し、信仰心を育むことの大切さを伝えている。

 しかし、それでも神島は漁区に近いことや、行幸などで有名となったために島へ渡る者が絶えず、記念に植物を抜き去ったりされてしまい、熊楠の想いはなかなか伝わることがなかった。彼は改めて島全域の全数調査を行い、神島は1936(昭和11)年、国の史蹟名勝天然記念物の指定を受けることとなった。その指定を受けた1月15日、熊楠は本当に喜び「書斎に行きましてありったけ自分の知っている小唄や都々逸を歌ってはしゃぎ、ひと晩ふた晩高いびきで眠りつづけ」(※6)たそうである。

 熊楠が奔走し、国の天然記念物となった神島への上陸は、現在でも田辺市教育委員会の許可が必要だ。

「紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」(昭和天皇御製)

 熊楠没後の1962(昭和37)年、再度南紀を行幸された昭和天皇は、白浜から神島を見て熊楠との出会いを語られ、「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」という歌を詠まれた。昭和天皇の御製の中で「湯川博士」等の人名を配したものも少なくないが、姓名全てが詠み込まれたものはこの歌以外にはないという(※7)。そして、この御製が発表されたのは、おりしも熊楠顕彰の機運が高まっていた時期であった。

 地元の有志等の尽力によって、1965(昭和40)年、白浜町番所山に「南方熊楠記念館」が開館されたが、記念館が建つ白浜・番所山には昭和天皇の歌碑も建立されている(※8)。私には昭和天皇の御製は、南方熊楠が詠んだ歌への返歌の様に思える。あるいは、対歌か連歌の様なものではないだろうか。それほど互いの立場を越え、生物学者としての存在を認め、尊敬し合っていた存在であった、と言える。

 熊楠は、田辺湾の天神崎をよく散策した。そこで様々な小動物などを観察しており、「今の内に天神崎を保護地区にしないと、不動産屋に買収されてしまう」(※9)と危惧していたという。天神崎は後に熊楠の意をくんだ外山八郎氏等によって、日本のナショナルトラスト運動発祥の地となって守られている。

 南方熊楠は決して過去の人ではない。熊楠が懸命に思考し、行動したことをこれから未来に向けて追想し、果敢に実践として活かさなければならない。自然との真の共生に気付き、南方熊楠に追いつかなければならない時が来たのだ。それが現代に生きる者の責務である。


※1 『南方熊楠日記2』(八坂書房)参照。→back
※2 変形菌。下等菌類の一群で、植物分類上の一門。栄養体は変形体といい、不定形粘液状の原形質塊でアメーバ運動をする。南方熊楠は粘菌を「原初動物」と呼んだ。→back
※3 南方熊楠は神島のことを「昨今各国競うて研究発表する植物棲態学eco-logyを、熊野で見るべき非常の好模範島」と書いている。→back
※4 二柱以上の神・霊を一社に合せまつること。→back
※5 当日は天候が悪かったので、昭和天皇は神島に上陸されていないのではないかという説もある。樫山茂樹先生等が調査中。→back
※6 『素顔の南方熊楠』(朝日文庫)参照。→back
※7 1963(昭和38)年、元旦の読売新聞紙上で発表された。→back
※8 揮毫・野村吉三郎、彫刻・山崎祥石。→back
※9 『父 南方熊楠を語る』(南方文枝・著、日本エディタースクール出版部)参照。→back


*『ぐりーんもあ』(財団法人国土緑化推進機構)2003年春号に掲載


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