●父は、近現代の日本人で偉いのは宮武外骨と出口王仁三郎、そして南方熊楠であると思う、と云った。その三人を偉いと思った人もある意味エラいが、良く考えたら件の三人は全て全て関西圏の人なのであった。単なる偶然とも思えない。

●その親父も85年に死んでしまった。日航機が落とされて阪神が優勝して、驚いて死んだものと推察され、享年55歳であった。グリ森事件に強い関心を持っていた。

●親が急に死んでしまって、残された記憶を辿って思い出したのが「近現代の日本人で〜」という奴だ。折角なので一人勉強してやろう、と思った。何がどう折角なのか。

●出口王仁三郎は宗教家なので、小拙は敬遠した。当時の小拙から見たら宮武外骨の資料は少ない様に思えた。残るはミナミカタクマクスだ。変な名前。筆名だろうと思った。

●今から考えると当時は外骨関係の資料の方が多かった。本屋で南方熊楠に関する本を買った。それが「ミナカタクマグス」であった。チャンバラトリオの南方師匠も和歌山・田辺の人である事も後日知った。

●熊楠が二十歳の時にアメリカのジャクソンビルで撮った写真があって、その眼光の鋭さに驚いた。意志が十全に出た眼であった。こいつには何かある、と思った。

●平凡社から『南方熊楠全集』(12巻)が出ていて、一気買いをしたが、それまで小拙は全集というものは『なだいなだ全集』しか持っていなかった。

●昭和46年に上梓された南方全集は、その20年前に乾元社から出た全集を親本としながらも新しいテキストが多く含まれていた。小拙はその後乾元社版も入手した。

●熊楠の場合、生前に上梓された本は大正15年の三冊のみで、加えて柳田国男が製本した『南方二書』があるのみである。また帰朝後は、ほぼ独学を貫いたので、後学が育たずに現在に至っている。

●生前の本の上梓も、長男の病気療養費を捻出するためと云われており、同年に集中している。岡茂雄の『本屋風情』という本にその辺りの顛末が描かれていて興味深い。

●小拙はいつの間にか熊楠フリークになっていた。熊楠に関連する本を渉猟し、田辺市から「紀伊民報」という新聞を毎日郵送して貰った。熊楠が出した『南方随筆』も『続南方随筆』も入手できたが、最初に出した『南方閑書』だけは中々見つけられなかった。

●上京の折、神田の古書店街をブラついていた時に、他の店より一層暗くて間口の狭い本屋が小拙を呼んでいた。いや別に誰も呼んでいないのであるが、最後に覗いて大阪に帰ってもいいだろうと思った。確か店名に「慶」の付く店だった。

●向かって左側の棚に古い市町村史や民話集のような古色然とした箱入りの本が並んでいた。壁の棚には化学関係の本があった。店の奥かなりレジに近い所に棚に差しきれない本が床から積み上げられていた。

●『南方閑話』は、当たり前のようにその本柱の中にあった。小拙は走って筋向かいの住友銀行で預金を出して持ちかえった。その後『随筆』も『続随筆』も縁あって複数冊持っているが、閑話だけは今でもこの一冊のみである。

●全集の12巻目(別巻2)には索引があって、ここから項目を引いて読むという見方をした。驚くのは、現代の凡人が気になったことなどの大半は、一世紀前に熊楠先生がアラカタ調べて呉れていることである。この索引が充分ではないという批判の文章を見たことがあるが、凡人には充分機能している。

●1991年に大阪・阪急百貨店で「超人・南方熊楠展」が開催された時に、初日の一番乗りを決め込んだ。ご婦人方と共に開店前のデパート前に並んで、開くと同時にエスカレータに飛び込んだ。7階の催場まで行くのにエレベータよりも速い、と踏んだのだ。

●平日の開店早々エスカレータで7階まで駆け上がる酔狂な輩は自分以外にいないだろうと思っていたら、同じような輩が2〜3人居たので驚いた。バカである。

●バカ同士の物凄いバカなデッドヒートの末、一番バカな小拙がトップで入場出来た。一番バカが入口をくぐると、中瀬喜陽先生がお茶の水博士の様な顔をして立っていた。一番乗りに何か意味や価値があったのか。あったのであろう。

●1993年の夏に休暇が得られる事となり、かねてより考えていた「熊楠フォーラム」を開催した。1カ月の休暇と夏の賞与をほとんど全部つぎ込んで家人にあきれられたが、全ての準備をほとんど一人でやった。その他家人以外の誰からも文句を云われる筋合いはなかった。この時ほど精神衛生上豊かであったことはない。

●フォーラムは近所のホテルの宴会場を借りて行った。樫山茂樹先生の基調講演、松居竜五氏の研究報告、その二人に池田千尋氏、武内善信氏、月川和雄氏を加えてシンポジウムを行った。会場の中には「南方熊楠を知る展」という展示も行った。

●1500円の会費を戴いて約90名の参加があった。田辺市の関係者、南方家のご親族、その他、 各地から熱心な熊楠ファンが集まった。 馬場紘二さんが『五の日の手紙』という本に熊楠フォーラムをご紹介下さったのが嬉しかった。

●同年11月に京都の「やんちゃフェスタ」という催しで、子供向けの「南方熊楠展」を行った。大雨の日であったが 500人以上の見学があった。実体顕微鏡で粘菌を見せたりもした。

●95年 4月に山本政志監督を大阪に呼んで、「映画『熊楠』緊急支援会」という催しを行った。ゲストに園田恵子、久原脩司。山本監督とはこのイベントの前後にスポンサーを探しによくご一緒したが、撮影中断中の映画は見向きもされなかった。「20世紀中に完成させよう」を合言葉にアチコチ回ったが、結局現在でも未完のままである。

●監督とは、諸々の打合せを兼ねてその年の 1月17日に大阪で会うことになっていた。監督は何故か前日から来阪していて、軽い気持ちで寝ていた大阪のカプセルホテルで阪神大震災に逢う。

●そんなこんなの熊楠フォーラム十周年の今年、鶴見和子先生からの「著者謹呈」として藤原書店から出ている『南方熊楠・萃点の思想』が贈られてきた。宇治で静養中の鶴見先生に贈った版画「南方熊楠曼陀羅之図」(田中武・作)の御礼の様だ。

●学術文庫の『南方熊楠 地球志向の比較学』は今でも南方学に於ける最高のテキストだと思う。南方学に携わっていて、鶴見さんの本を読んでこなかった人は居ない。フォーラム十年目のひとつの成果だと言って良い。


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