●桂枝雀の落語『植木屋娘』では植木屋の幸右衛門が無筆なので、寺の住職に書き出し(請求書)の代筆を頼む。住職が忙しいのでお寺に居候の伝吉を植木屋に寄越した。

●幸右衛門が付けた符帳を見ながら、伝吉が書き出しを書く。スジ一本が百文でチョボ一個が十文。スジ二本チョボ三個で二百三十文、ということである。更に白丸が一貫で黒丸が一両。三角が一分。伝吉は二時間半で全部書き終えた。

●幸右衛門は伝吉を娘のお光の養子として迎え、自分たち夫婦は隠居しよう、と考えた。お光に意思を確認したら、うつむいて畳に「の」の字を書いた。田村義也に『のの字ものがたり』という本があって中中佳い本である。

●『住吉駕籠』という落語では、オンテ(御手)、オニテ(鬼手)という符帳が出る。指の数で、それぞれ五百文、三百文ということである。駕籠代が三百文では駄目だということで、トリテ(鳥手)はおかしいのでトリアシ(鳥足)ではどうか、と言う。三本指に蹴爪を加えて三百十二文。熊手四百文なども。

●結局は「お城に大手、奉行所に捕手(とりて)、お茶屋に遣り手、箪笥に引き手、旦さん乗って、そらもう置いて、やめといて」と言われて、遊ばれて逃げられる。

●宮崎アニメのタイトルには全て「の」の字が付くという。なるほどそう言えば『紅の豚』にせよ『魔女の宅急便』にせよ『となりのトトロ』にせよ例外なくそのようだ。

●「@」は「の」に似ているのかも知れない。「at」の意味だそうである。外人が小文字筆記体で「at」と急いで書いた時に「@」に似たのではないか。「あーっと!atと書こうと思たのに、tが丸なってしもて、こんなオモロいマークになったでっ!あーっとマークになったからアットマークて呼ぼか!」てなもんか。

●「の」で言うと、「のり屋の看板」という言葉があって、初代春団治の落語『居酒屋』に出る。海苔の商標の多くは「の」の字が太いので、居酒屋の親父が「私らの商売は海苔屋の看板ですわ」というと「利が細い」ということになる。一方で食い逃げしそうになる男を咎めた時に、同じように「海苔屋の看板」というので、何故かというと「野太い方ですわ」と返す。

●電子メ−ルのアドレスを現すのに、意味は同じでも「at」よりも「@」の方が使うビット数も少なく済むのであろう。符帳が伝われば効率の良い方がいい。

●効率良く伝えることが出来る時代に伝達通信される情報と、そうでなかった時代の情報の質は単純に比較はできない。石や木も主観者がそれが「情報」であると認識すれば「情報」になる。現代の情報機能が完備されていない時代にも「情報」は在った。

●欧州にはかつて「腕木通信」という櫓状で機械式の信号機があったという。遠方からでも望遠鏡などで見て、意を伝えていたという。日本科学未来館には「インターネット物理モデル」という仕掛けがあって、小拙も見たことがあるが、大変に優れた模型だ。スミソニアンから同形の仕組みの展示を依頼されたが、製作者の村井純氏は断った。こういうことがニュースになって貰わないと世の中面白くない。

●夫婦や親子の会話すら、情報の交換、情報の伝達と言わざるを得ない。若し世界に人間が自分一人になっても、「情報」は存在するのか。猿一匹ではどうか。そも「情報」は必要なのか。

●その点、小拙のように落語者(落語好きのこと。落語家と区別するための造語)になっていると「情報」にこだわる必要が無くなってくるように思う。自在に数次人格者になって「噺」の中に入ってゆくことが出来る訳だから便利といえば便利だ。一歩間違うと落伍者もしくは禁治産者の危険性はある、が。

●恐らく、コンピュータや通信手段、携帯電話などが発達したので、世界の都会生活者は多忙になった。世の中が便利になればなるほど個人が不便になるというか、煩わしいことが増える。

●結局は自分なので、最後には鉛筆一本で勝負出来る奴の勝ち、だ。ただしコンピュータの画面上で見る「でつ」がスヌーピーに見えるなどという小技は好きだ。面白く楽しい伝達は幾らあっても足りない。

(2004年3月29日号掲載)


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