上方落語には無限の可能性があります。

 無限ですから宇宙よりも大きな可能性です。私たち上方の人間の生活文化にとっての上方の落語は、将来本当に重要な位置を占めることになると思います。二十一世紀になった現在、なぜ上方落語がそこまで大切なことなのでしょうか。

 東京農業大学の小泉武夫先生によりますと、現在の日本の食糧自給率は四割以下だということです。これは大変に深刻で重要な問題だと思います。日本以外のいわゆる先進国は軒並み農業立国でもあるのです。飢饉や有事があっても自国民を守り、自国の文化と文明を守ろうとすれば食糧自給率四割以下では、どうしようもありません。

 農家が農業をやらなくなり、漁業も然りです。しかし、本当はやらなくなったのではなく、出来なくなったのかも知れません。そうした一次産業の衰退は国力を弱めると言います。日本は芯の部分で脆弱になってしまっていると言わざるを得ません。

 落語は、第一次産業分野からは一番かけ離れたものかも知れません。ひょっとしたら両極端同士に位置する位の違いがあります。当然ですが、食べ物は無くなると生命を脅かしますが、上方落語は無くても死ぬことはありません。しかし自国の文化を捨ててしまえる人は、自分も家族も本気で愛することは出来ないように思います。ですから、自国の文化を守り育てることは、食糧問題を考えることと同じくとても大切なことだと考えています。

 無くても死なないから必要がない、という考え方では人間の生活が豊かになりません。着物には何故縞や柄があるのでしょうか。私たちの生活には必ず色が有り、そして色が必要です。服や生活雑貨、その他全てのものから色や柄を取り除いた生活は考えられません。

 上方落語には、人の生活を豊かにできるエッセンスがたくさん含まれています。

 人と人との会話の中から出てくる喜怒哀楽や人情の機微にも触れることができる上方古典落語の世界は、今こそ私たちが身近なものにしてゆくものだと思います。

 必要が無いものほど、必要が無いから必要以上に欲するということもひとつの真理です。無くても困りませんが、生活の上に絶対あって欲しいと希求するべきものが上方落語であると言えます。

 物に色が付いているように、上方落語には私たちの生活に色を加えることができます。どんなに大きな家に住んでいても、立派な車に乗っていても、高価な装飾品に身を飾っていても結構です。しかし、お金だけで買える価値には、人の生活にとって本当の意味と意義はありません。

 そうしたことよりも、面白いことをたくさん話してくれる人、他人の悲しさを理解し共感してくれる人、お金はなくても楽しめる方法をいっぱい知っている人、そして一緒にいて本気で安心できる人である方が良いのです。

 「色」は「艶」です。幾つ何十になっても、人は艶(あで)やかで艶(つや)やかでありたいものです。老若男女にかかわらず、人から色気がなくなってはいけないと思います。色気がなければ生きて存在している価値がありません。

 それは、容姿の問題ではなく、色気という「気」を発し続けることができるかどうか、という問題です。

 そういう意味では、上方落語を支持し、隆盛を極めさせることは、生命を維持するための第一次産業を守ることと意味の上では同じだと思うのです。そして、私たち市井の人間一人一人が、意識を持って上方落語に注目し、支持し、育て上げてゆく位の気概を持つ必要があります。

 作家の橋本治さんは、雑誌『広告批評』上で現在の日本が、貧困な国や地域へ唯一輸出するべきものはODAや公的資金援助などではなく、日本の古典落語ではないか、と書いておられました。世界的な構造不況が続く中、お金がなくても楽しく幸せに生きる知恵が一杯詰まった古典落語を各国語に翻訳し、輸出するべきであり、それが、唯一日本が世界に対して貢献できることではないか、と。

 中々ユニークな提案だと思います。確かに古典落語には、庶民や市井の人々の知恵が多数登場します。長屋の住民の中には家賃の存在すら知らない人も出てきます。そういう人でも長屋の仲間の一員として役割が与えられ、共に生活をしています。現在の日本であれば社会からはみ出してしまいそうな人達ですが、世界の基準ではそうした楽しく明るい知恵の存在は大変貴重なものになるのかも知れません。

 上方落語「貧乏花見」の中に「気で気を養う」という言葉が出てきます。その気さえあれば、道具や設えが揃っていなくても、考え方ひとつで何でもいつでも楽しめたり、面白がったりすることができる、という意味だと思います。お茶をお酒と思?い、沢庵を卵焼きと考え、釜底(焦げた飯)を蒲鉾にしておく。相当無茶なこじつけではあります。しかし、そういうものがあるつもりで、皆で花見に行こうという気持ちさえあれば面白い、という発想です。

 桜はお金持ちのためだけに咲いているわけではありません。花を見て愛でるのは万人に与えられた自由です。

 もしそこに足りないものがあったとしてもそこは気で気を養って、行かないよりは行ってみた方が良いという、一種のポジティブシンキング法です。この考え方は、橋本さんの提案にもつながる良い思想だと思います。

 上方落語が各国語に翻訳された場合、微妙なニュアンスや感情の起伏、上方言葉独特の表現などを完全に伝えることは難しいと思います。しかしそれでも各国語に翻訳されることには価値があると思います。日常生活上の基本的な楽しみ方や面白がり方さえ伝えることができれば、意味はあると思います。橋本さんもそうした翻意があることが充分に分かった上で、それでもやってみるべきではないかと提案しているものと思います。

 これだけ社会が進歩し、人の嗜好が多様化した現代において、上方落語を更に発展させるためには何が必要でしょうか。上方の言葉で上方落語の方法論の上で、言い換えれば一枚の座布団の上から何を発信させればよいのでしょうか。

 まず、古典落語と呼ばれるものの整理をする必要があると思います。三百以上あると言われている上方古典落語を整理・分析することは、これから落語を学ぶ人の大きな参考になると思います。

 現在でもガイドブック的なものや資料・史料はありますが、市井の人たちにまで情報が届かず、充分に意図が伝わっていません。上方落語の全体を俯瞰し、全ての落語のデータベースを構築し、公開するべきだと思います。

 古典落語の定義も明確ではありませんが、一応第二次大戦を境にして、それまでにあった作品を「古典」と呼ぶ、という位の緩い定義で構わないと思います。

 そして、その三百以上あるといわれている上方古典落語の全体を完全に公開し、全貌を明らかにする必要があります。その初期段階として、そのための調査とデータベース作りの作業が必要です。学生や社会人の、落語愛好家や落語研究会同人とのコラボレーション(協働)によって、基礎資料の整備をすることが有益かと思います。

 そうした基礎資料データベースをインターネット上等で開架公開し、多くの人の参考となるとなるように、一覧を掲出します。上方落語データの属性としては、落語の題、作者、創作されたと思われる年代、概要と解題、落げの分類等は分かる範囲で最低限掲出しておくことが必要かと思われます。噺の中身も可能な限り発表しておいた方が良いでしょう。

 そうした一次資料は、書籍化もされ、オンデマンド化の技術を使い、必要とする人に頒布されます。そうして紙に印刷されたものは、場合によってはやはり必要です。

 こうして、一次資料が、ウエブサイト上のデータと書籍化されたものとで相互に発信されることにより、上方落語の基礎理解を獲得する下地作りに貢献します。

 第一次資料を完全にオープンにすることによって、上方落語は俎上に載せられ、一般的な批評や評論の対象となる確率も高まります。上方落語ファンさえも普段あまり聞き馴染みのなかった落語が発見できるメリットと楽しさも加わります。

 また、落語それぞれの内容構成、伏線、プロット、人物キャラクターの印象、そして落げなどの矛盾点や弱点が発見され、今後の古典落語の復刻に結びついたり、改善につながったりする利点にも期待できます。

 そうして、インターネット上での展開や書籍化による全ての古典落語が閲覧出来るライブラリーの機能には、常に新しい情報が追加され、更新されてゆきます。

 そうして古典落語が常にライブで一堂に公開されていることによって、演者と聴衆との間にも正しい緊張感が生まれます。

 前述したように、全体像が公開されることによって、一般の新聞や雑誌などのメディアが取り上げる機会への開発へとつながります。そうして、一般の批評や評論の対象となることで、新たに上方落語の良さや、本当の面白さを提示することができます。日常生活の上で、これまであまり馴染みのなかった上方落語の地域寄席開催等へのきっかけとなる可能性も高まると思います。

 そのように、現在の約二百人の上方落語家を中心に、落語愛好家などの熱心なファン層、落語好きの若い人、落語の舞台や脚本などの興行を支える人、そして批評や評論等を通じて面白さを伝える人たちなどの、更に大きな関連する運動体を構成する必要があります。 p> 大御所と呼ばれる落語家の方々にも、役不足と捉えられることのない参画のしていただき方を考えましょう。

 上方落語を末永く発展させるためには、将来世代、つまり若い人や子どもたちへの興味の対象とする必要があります。上方落語が未来永劫発展を続け、更に多くの人たちの共感を得るためにはやはりそうした継続発展を見据えた施策が必要だと思います。

 昨年、お寺の境内で開催された、小さな落語会を拝見する機会がありました。小さな会ではありましたが、三人の若い噺家と下座のお囃子まで入った中々の良い企画でした。お寺の会なので、檀家の方々や近所のお年寄りたちが集まってこられていました。

 その方々の家族か、若い御夫婦やその子どもたちも混じって座っていました。子ども向けの会ではないので、就学前の小さな子どもは流石に噺を聞いてはいませんでした。

 しかし、小学四年生位の男の子が一人で一番前に座り「三十石」を熱心に聞いていました。彼の頭の中ではしっかりと登場人物が話し、情景が浮かんでいるように見えました。

 古典落語の世界観をまだ頭の中で構築したり、再現したりするための知識はなくても、自ら積極的にそこまで熱心に理解しようとしている子どもを見て大変感心を致しました。

 それより先年に、幼稚園の行事で幼稚園児向けの観劇会を見る機会がありました。その時は観劇の代わりに笑福亭鶴笑さんを招いての落語会を開催されていました。鶴笑さんの「パペット落語」は今や独自の世界を確立され、諸外国でも評価の高いものとなっています。

 大半の幼稚園児は、その時に初めて生の落語に触れたのです。面白かったのは鶴笑さんが上手後方を見て「やあ、いらっしゃい!」と言った時に、子どもたち全員が後ろを振り向いたことです。子どもたちには落語の約束ごとが通じません。本当に後ろのドアから誰かが入ってきたものと勘違いをしたのです。

 そうして、実際に聞いてみることや、体感をすることによって、ひとつずつ徐々に落語というものに親しみを持ち、面白さに気づくことが出来ると思います。

 本当の落語の面白さの本質は、演者だけでは成立しません。会話と最小限の身振りだけで聞く側の頭の中にイメージを浮かび上がらせながら、最後にすうと終わる。幼稚園の時分にそういう最初の経験が出来た子どもたちは幸せだと思います。

 そうして、幼稚園や小中学校、高校などへ出張し、学校寄席を励行する仕組みが必要です。現在でも学校寄席は開催されていますが、上方の落語家がもっと出てゆける仕組みは出来ないものでしょうか。学校や地域で「学校寄席」開催の為の基金を積み立てるとか、バザーを開催する等をして、開催へ向けてのファンド化を実施すればどうでしょうか。

 新作落語に関しては、古典落語のデータベースのツリーの下に一覧を登録します。新作落語は、作者が限定される場合が多く、諸権利関係の属する問題があるので、古典落語と同様に公開出来るものと出来ないものとがあると思います。

 理想を言えば、ごく普通の一般の家庭内で、家族の団欒の時に上方落語の話題が出る程のブームになって欲しいと考えています。今日聞いた「崇徳院」はメリハリが効いていて良かったとか、この間の「らくだ」はテンポは悪かったが落げは良かった、などという話題が一般家庭の話題にのぼる様ですと文化として一級だと思います。

 イタリアやドイツの一般家庭では、オペラ歌劇の話やクラシック音楽の話が食事中にでも出るそうです。自国で生まれた文化や自国で発達した文化を愛し、触れ、そしてきちんと評価・再考することで、当のオペラやクラシック音楽を育ててゆきます。

 イタリアにおけるオペラ、ドイツにおけるクラシック音楽と同様、上方には上方落語があります。上方の人々には上方落語が常に意識下にある状態が、人と人との関係性をプラスにします。

 人間が物事を考える際には、言葉を使う場合が多いと言われています。単なる記憶は像としても残っていますが、思考は言葉で行うとされています。イギリス人は英語で、日本人は母国語の日本語で考えているわけです。

 私たち上方の人間は、やはり上方の言葉で物事を思考するのではないでしょうか。同じ「エライ」でも「偉い」のか「しんどい」のか「多い」のか。微妙な違いですが、意味は全く違ってきます。「ハシ」は「箸」なのか「橋」なのか「端」なのか。少しのイントネーションの違いで意味が大きく違ってくるわけです。私たちは、そうした使い分けを普段何気なく行っています。そういう意味では私たちは上方の言葉を大切に使ってゆくことによって、自らの思考の芯の部分を形成することにつながるのではないでしょうか。

 テレビの文化は標準語が中心になっています。日本中に標準語が正に標準化されることを考えるとぞっとしません。文化の均一化や同質化は、その文化を面白くなくさせるだけでなく、文化そのものの力、文化全体の力を弱めます。

 テレビ文化にも学ぶべきところはありますが、テレビというメディアの特性で、その多くは一方通行の受動的な甘受しかできません。見終わってから無為な時間を過ごしてしまった、と思うこともしばしばあります。それはやはり一方通行的な受け身の行為でしかないからだと思います。

 人気のテレビドラマなども、役者が下手なのはともかく、あまりにもストーリーが勧善懲悪型に過ぎます。深い筋書きや細かい描写よりも、幼い俳優の棒読み台詞、新品ばかりの衣装に耳目が集まる社会はあまりにも稚拙であるとしかいいようがありません。

 また、テレビでの笑いのベクトルも低く単純化してしまい、瞬間的な面白さや他人の欠陥をあげつらった笑いに満ちています。そういう笑いを完全に否定するわけではありませんが、それは笑いというもののごく一部分にしか過ぎません。

 笑いというものには、そうした爆発的或いは差別的な爆笑や嘲笑的なものだけではなく、苦笑や微笑、嬉笑・艶笑という笑いもあるわけです。そうした豊かな笑いの文化を取り戻すことが、生活の中にゆとりを感じ、楽しく暮らしてゆけることにつながるように思います。

 落語のもとになった話を多く残した安楽庵策伝のその書名は「醒睡笑」と言うものです。緊張と緩和の渦の中から可笑しみや面白み、楽しみや悲しみ、そして親しみというものが生まれてくるのではないでしょうか。

 落語は大別して「人情噺」と「滑稽噺」に分類されます。その中に事件や恋愛、驚きや恐れ、笑いや哲学が散りばめられているのです。人と人、つまり人間関係における類型的な事例の大半は、これまでの上方古典落語の中に全て詰め込まれています。

 人情噺の中には、男女や親子の愛憎劇もあれば、大悪党や泥棒など悪人の噺、芝居噺や廓噺などが含まれ、涙を誘うものも多くあります。全く笑う場面のない落語もあります。

 転じて滑稽噺では、大概阿呆な奴が出てきます。そしてその様々なボケに対して、したり顔でつっこむ役柄の人もいます。長屋の連中が集まれば賑やかです。会話の多くが軽口であったり、おトボケの会話に終始したりする場合もあって、常軌を脱する場合もあります。

 SF作家が落語好きなのには、やはり相応の理由があるのだと思います。想像を絶する世界でも、口の先ひとつで時空を超越することが可能だからです。「地獄八景」などはその典型かも知れません。また、上方落語ではありませんが、ウーロン亭茶太郎さんの「オペラ落語」なる、一人で大オペラの絵巻を演じ切ってしまう様な壮大な芸も存在します。

 また落語には、季節感が感じとられるものも多く、それぞれの演目を季節毎に演じ分けることも可能です。

 そうした四季の歳時記的な意味合い、それぞれの季節の旬のものや時節・時候などを知る上からも上方落語を絶えさせてはいけないと思います。

 夏には怪談噺も用意されていますし、冬の正月向けの噺、春には花見、と豊かな四季に合わせる様に噺も揃っているわけです。古典ではありませんが、永瀧五郎さん創作の「除夜の雪」の様な冬の季節の怪談噺まであります。

 また、御簾内からは下座の囃子が用意されていて、噺に合わせて調子も合わせます。上方落語は特に鳴り物入りの噺が多く、古典芸能に於ける音楽的要素も豊富で、特に邦楽的な見地からも貴重で重要な芸であるといえます。

 上方落語は辻説法の様なところから発展しているので、浪曲的要素を多く残し、それに義太夫や歌舞伎の素養まで必要とされる高度な芸術であると思います。

 世界のどこを探しても、これだけ多彩で奥の深い話芸は存在しません。まして、演者だけでは成立しないのが落語です。演者と聴衆がある意味で相剋しながら、話と場を創作する総合芸術が落語というものだと思います。そういう意味からも相当な高等芸術であるといえます。

 「お笑い」は芸能一般からも軽く見られがちです。シリアスな芸風の持ち主が一段上で、お笑いは下級なものとされています。芸人の出演ギャランティ階級も、一部の例外を除いてそうした構造になっています。

 しかし、他人を笑わせることは難しい場合が多いように思います。他人を泣かせたり怒らせたりすることは、やろうと思えば誰にでも出来ますが、いざ笑わせることは大変難しいのです。

 欧米ではコメディアンやボードビリアンなどの社会的地位は総じて高く、多くの人の支持を得ているのは、ある意味では当たり前であるということが出来ます。

 国際科学振興財団「心と遺伝子研究会」での村上和雄さん(筑波大教授)の研究では、笑った場合と笑わなかった場合の血糖値の割合が全く違って出た、という報告があります。笑った後で計った血糖値は大変に低いそうです。

 社会学者の鶴見和子さんは、脳出血で倒れられた晩に夢に短歌が噴き出たそうです。また、リハビリに舞も使っておられます。免疫学者の多田富雄さんは脳梗塞で倒れられ、意識が回復した時に「隅田川」や「歌占」などの能のテキストを全部謡うことで自己を確認したそうです。古典・伝統芸能の要素に笑いまでが包含されている落語にも、脳を活性化させ、生気を漲らせる効果があるのではないでしょうか。

 上方古典落語には、江戸時代や明治時代などの、人々の生活風俗や習俗が巧く描写されています。長屋の構成や、大家と店子との関係、庄屋と町民の関係などが、噺の中で分かる仕組みになっているものが多いのです。船場の大旦那、若旦那、番頭、そして丁稚などへ続く上位下達の方法論や、いとはん、こいとさんなどの女性側から見た社会など、当時の町や店の様子などが、時には細かく描かれます。

 また、廓におけるしきたりや約束ごと、置屋のおかみさんや芸者、そして幇間業などの職業の存在と役割なども自然と分かります。

 こうした花街の事情などは、落語以外では中々勉強の出来ない歴史風俗の貴重な口伝資料であると思います。

 そうしたことを徐々に知ることによって、更に違う落語への興味が湧いてきます。そのようにして上方落語への人々の理解の輪を大きくしてゆきたいものです。

 新作の創作落語の中には擬古典という分野もあります。これからの若い世代の人が生み出す古典落語には新しい興味と期待があるように思います。

 古典落語の内容は基本的に変わりません。長い時間をかけて成立をしたものですので、ものすごく洗練されていて、中身や構成もしっかりとしています。それでも噺家それぞれの演出の仕方が違いますので、何度でも同じ落語を楽しむことができるのです。

 前述の、欧州におけるオペラやクラシック音楽も同様だと思います。演目は同じでも演奏家や指揮者が変わると、全体の印象やテーマが微妙に変化してゆきます。聴衆はそういうところを読み取りますので、何度でも楽しめるわけです。

 現代では、情報技術が日進月歩で革新されています。エンターテイメントの分野にも多くの新しいハードやソフトが続々と出現してきています。これほどまでに多様な文化が出来つつある現在、上方落語が生き残り、永続してゆくためには一人でも多くの人の琴線に触れさせ、機会あるごとに脳裏に浮かべていただくことが大切です。

 上方古典落語の世界は、経済状況も文明の進歩も現代とは比較にならない位に稚拙なものです。しかし、人と人との多角的で豊潤な関係、多くの仲間たちとの助け合い、そして恋愛感情や愛憎劇などと、お金では買えない本当に豊かな社会が描かれています。

 この上方古典落語の世界は、過去や昔のことですが、文明重視型社会の現在よりも、このような人間重視型の社会の方が、より人間らしい暮らしが過ごせるのです。

 イタリアのブラという村で生まれた「スローフード」運動は、今世界中のブームになっています。ゆっくりと、落ちついて自分の足元を見つめた食生活運動の世界は、上方古典落語の世界と共通しているように思います。

 そういった観点で考えると、上方古典落語の世界は過去のものではなく、ひょっとすると日本の未来の風景、未来の社会が目指すべき姿の鑑ではないでしょうか。特に上方が目指すべきは、首都東京の真似事でない上方独自のまちづくり、人づくり、そして互いに高め合う社会づくりを目標とするべきではないでしょうか。

 前述の橋本治さんは、古典落語を各国語に翻訳して輸出しようという提案をされました。上方古典落語には無限の可能性がある、と書き出しましたが、それには私たちひとりひとりが行動をしなければいけません。どういう方法でもいいので、上方落語に関する何らかのアクションを起こすことから始めたいと思います。上方古典落語をテキストにし、教科書として必要なのは、上方に住んでいる私たち自身なのかもしれません。

 上方古典落語には無限の可能性があります。これだけは間違いのないことなのです。そしてその可能性に対して私たちが行動を起こせば必ず良い報いがあると思います。「情けは人の為ならず」は上方古典落語を愛し、信じる人のためにもある言葉であると思います。

 将棋の米長邦雄氏の語録に「幸せの女神はね、努力する人に微笑むと思うでしょ?違うんです。努力というのはつらいのを我慢すること。女神はそういう人より楽しんでいる人に微笑むんです」(「自在流棋界散歩」内藤國雄・朝日新聞二〇〇三年八月十二日夕刊)とありました。

 私たち上方の人間には、やはりそうした日常の生活そのものを楽しむことが似合っていると思います。「気で気を養う」が如く、少しくらいの壁や困難は笑い飛ばし、笑い流すくらいの気持ちでいられる人の多い社会が、多くの人を幸福にするような気がします。

 そうした、楽しく意義深い毎日を送るためには、上方落語を繰り返し聞くことが大切です。

 上方落語は多くの情報が満載されている、身近なものですが、たいへんに高級な芸です。

 上方落語を聞くことによって、私たちの生活が明るくなり、私たち自身も共に成長し発達してゆくことができます。

 上方落語は私たちの夢を叶える、本当に無限の可能性をもった唯一無二の絶対のものであると、私は確信しています。

(2004年4月26日号掲載)


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