2003年の本欄で「ビリケンさん」という稿を認めた。人の興味というものは経年変化するようだが、小拙のビリケンさん熱は4年経っても冷めていない。当時の文章を「○」に、それに関連した現在の文を「」にまとめてみた。

○ビリケンさんは日本では通天閣(大阪・新世界)がほぼ唯一だと思っていた。確かアメリカで考案された神さんで、大阪での第五回勧業博覧会(明治36年)の跡地利用の時にルナパークというアメリカのテーマパークと一緒に輸入された、という程度は知っていた。田村駒という商社が商標を持っている。ビリケン音頭もある。

▼第五回勧業博覧会は1903年(明治36年)の3月1日〜7月31日で開催された。それまで東京で3回、4回目が京都で開催されていた。内国勧業博覧会はこの大阪で最後となった。

○今年1月(2003年)の朝日新聞紙上で切り絵の成田一徹氏が神戸・兵庫区の松尾稲荷神社のビリケンさんを紹介してあるのを見て驚いた。それはあの愛嬌のあるビリケンさんではなく、カレーパンマンとハクション大魔王と笑うセールスマンを足して踏んづけたような異形をしているではないか。しかし確かにビリケンさん。

▼2007年5月19日(土)に成田一徹さんに初めてお会いした。神戸アートビレッジセンター(KAVC)にて成田一徹展をされた。面識はなかったが、間接的に知っていた成田さんをKAVCにご紹介する、という関節技をした。成田さんに会えばビリケンさんの話をしようと思っていたのであったが舞い上がっていたのか、何も聞けなかった。その前週に大阪・守口のバーボンバー「呂仁」のTマスターと神戸で飲んだという。

▼また、その後同じ兵庫区内(西出町)の鎮守稲荷神社で昭和5年製の木製ビリケンさん像が発見された。ガラス越しに見学できる。松尾稲荷は東出町でここのは大正中期製と見られる。

○ビリケンさんは、明治41(1908)年にカンザス市(ミズーリ州)のフローレンス=プリッツ女史(美術家)が夢のお告げに従って彫刻したのが最初だという。翌年に 27代大統領となったタフト氏のあだ名が「Billy」だったことから「Bi-lliken」と名付けられたというのが通説。同年からシカゴのHorsmanという人形メーカーがビリケンさんの人形を売り出したという。関連が深そうなキューピーよりも早く誕生していることになる。

▼ということは、来年(2008年)はビリケンさん誕生100周年記念ということになる。

○ビリケンさんには他に、中国の「Joss」という神さんを模したとか、アラスカのエスキモーのHappy-Jackの「ベリケン」という置物が元祖だとかという説もある。後者は『招福縁起物大図鑑』という本に載っているようだし、米国の研究者もウエブ上で発表している。

○しかし橋爪紳也氏などの本を見ると、上述の様に勧業博覧会跡地を「新世界」と名付け、ルナパークと初代通天閣がオープンした時にビリケンさんも居たということになっている。その年の7月末には大正に入るので、新世界で祀られてすぐに神戸、が順当なところか。大正の宰相寺内正毅は頭が尖っていたか「ビリケン首相」と云われた、という。

▼その後、船場の橋爪さんの事務所に伺った際、小拙が映画「ビリケン」の時に買ったビリケンさん人形を鞄に付けていたのを見られて「あんた変わってるわ〜」と言われた。橋爪さんのコレクション棚にも同じものが鎮座していた。先般の選挙応援にも参じた。

○初代通天閣は土台が巴里の凱旋門、上がエッフェル塔、そこから放射状に道を作った。ルナパークはアメリカのテーマパーク。香港のタイガーバームガーデンも驚く国際性である。初代通天閣は昭和18年に失火により解体され、国(軍)に鉄を供給したそうだが、本当だろうか。小拙は単に空襲の標的になる事を避けて解体した様に思う。

▼初代通天閣は明治45年(1912)に完成し昭和18年に取り壊された。

○日本のルナパークは、明治43年、東京の浅草六区に出来たのが最初。ルナパークと共にビリケンさんも輸入されたとすると、浅草六区にもビリケンさんが居た、とする考えは成立しないだろうか。小拙は浅草にも居た、と見る。仁丹塔の中か。白秋の「東京景物詩」に「ルナアパークの道化もの」という件があるそうな。林海象の映画「夢見るように眠りたい」では仁丹塔の実写が出る。

▼その後に読んだ高峰秀子の『人情話 松太郎』(文春文庫)という本に川口松太郎の貴重な話が掲載されていた。曰く「そして14歳のときに(中略)お前さんビリケンって知ってるかい?(中略)金物で出来て、ちっぽけな人形だ。西洋の福の神って書いてあったな。(中略)俺はそのビリケンとくろもじ屋の間が空いてたからそこへゴザ敷いて本を並べたんだ」とある。川口松太郎は明治32年(1899)生まれなのでこの話は大正元年か。

○新世界のルナパーク、初代通天閣が無くなり、ビリケンさんも忘れ去られた。現在の二代目通天閣(103m、昭和31年〜)が出来てもビリケンさんは帰ってこなかった。ルナパークにあったビリケンさんはどこへ行ったのか。初代通天閣の写真は当時の絵葉書等が比較的入手し易いが、「初代ビリケンさん」の写真は今まで見たことが無い。

▼初代通天閣と同じ明治45年(1912)に開園したルナパークは、大正12年(1923)に閉園したが、その時にビリケンさん(初代)が遺失している。

○初代桂春団治の落語「八問答」には「今、ピリケンさんに信心してんねん」と出てくる。この録音は昭和初期のものなのだが、「八問答」には太陽が神戸辺りで泊まっているかも知れないので聞いてみる、という件等がある。小拙はこの「ピリケンさん」は神戸のビリケンさんの可能性もあると見ている。初代に存外と神戸ネタが多い事については別途単独で研究に値するテーマである。

▼初代は、新開地にあった劇場、聚楽館や寄席の神戸松竹座、兵庫の寄席パレスなどに出入りしていたものと思われる。

○大阪人は「ビスケット」を「ピスケット」と云ったり、「ビンタ」のことを「ピンタ」と云ったりする。大阪では当時からビリケンさんはピリケンさんとも呼ばれて居たのであろう。

▼「ビンビンだ!」を「ピンピンだ!」は別か。毘沙門天をピシャモンさんとは言わない。

○昭和54(1979)年、通天閣の三階を多目的に使うこととなった時にビリケンさんを復活させることとなった。商標元の田村駒社にあった「ビリケン」を参考に復元させたものが現在のものという。田村駒にある「ビリケン」とはいつのどんなものなのか。

○映画「哀愁」ではラストでロバート=テイラーが、ビリケン人形を握りしめるというシーンがあるようだ。小拙には阪妻の「王将」に出てくる初代通天閣が忘れられないが、あれが実写であるとすると貴重な映像資料であると思う。阪本順治の映画「ビリケン」が完成した年、「王将」の作者北条秀司が逝った。

○新世界のルナパークに居た初代ビリケンさんはどこかで現存していて、こそっとこの世間を笑っている様な気がする。

▼ビリケンさんのことをビリケン、と呼び捨てにする輩が居るが、神さまを呼び捨てはないだろう、と思う。

▼神戸・兵庫区に諸田茂さんというビリケンさんの収集家で研究家の方が居られるという。会いにいかねば。招福。

2008年01月07日号掲載
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