タクシー乗り場に行くと怪しげな男が寄ってきて、ピカデリーサーカスなら£50で行くと言う。日本円に直すと1万円じゃないか。いくら何でも高いだろう。しかし男が言う――もう今からじゃタクシーはないぞ。

 

 

 

 

 

 






 



 
 
 
 
 
 
 
 
 

   

 もちろん窓の外は真っ暗である。次に心配になったのは果たしてキングズクロスに着いてからチューブ(地下鉄)が動いているかということと、ホテルの部屋が確保されているかということである。ホテルに電話しようにも全然余裕がなくて電話できなかった。かといって電車の車内から電話することもできない。ガイドブックを見ると、チューブの最終はラインにもよるが、11時半から12時半ぐらいである。

 しかしまあそれ以上心配しても仕方がないや。となると気になるのは娘のことである。あわただしく置いてきてしまったが…。

 でもたぶん大丈夫だろう。アメリカへ学生の海外研修を引率して何度か行った経験から言うと、ほとんど全員が帰り際には「帰りたくない」と言う。最初の数日間は慣れるのに大変だが、その後は生活リズムに慣れるので生活が楽になる。何時に起きてどの扉を開ければシリアルが入っているか、どのバス停に何時に行けば何時には学校に着けるか、そういうことが分かってくれば最低限の生活を送るのに、言葉はだんだん必要なくなる。だから気が楽になれる。生活とはそういうものだと思う。学校についても同様のことが言える。そうして2週間目には劇的に時が過ぎるのが速く感じられる。そして、あっという間に別れの時がやって来て、ああ、もっといたい!と思うものだ。これがアメリカだと、アメリカ人は涙もろいので、別れの時にたいていホストの方から泣き出して、日本人学生も泣き出すというパターンが一般的なのだ。

 キングズクロスに着いたのは11時半。たっぷり1時間かかったことになる。

 出口の方に歩いていくと、すでにチューブの入り口にはシャッターが降りている。ああ、やはりチューブには間に合わなかったか。ナイトバスというのが動いているが、果たしてピカデリーサーカスまで行けるかも分からないし、早くホテルに行きたい。部屋の確認もしたいし早くシャワーも浴びたい。しかし、もしホテルがキャンセルされていたらこれからどうやって部屋を探そう。ロンドンの野糞ならぬロンドンの野宿になってしまう。

 タクシー乗り場に行くと怪しげな男が寄ってきて、どこまで行くのかと言うので、ちょっと怪しいとは思ったがピカデリーサーカスだと言うと、£50で行くと言う。£50だって?日本円に直すと1万円じゃないか。そりゃあ、いくら何でも高いだろう。しかし彼はもう今からじゃタクシーはないぞと言う。

 こちらは早くホテルに電話を入れたいと焦っている。ホテルの予約を確認するために電話したいのだがと言うと、それならおれの携帯電話を車の中で使えばいい、とにかく乗れ乗れと言う。もう、£50払ってもイイや、とにかくホテルに行きたいからとタクシーに乗る。電話をと言うと彼は自分の携帯を少しいじったあとで芝居っ気たっぷりに、「ちくしょう、ダメだ。おれの電話は壊れている」などと言い出す。その芝居っ気にこちらはおかしくなってしまった。

 「向こうに電話ボックスがある。そこまで行くからそこから電話すればいい」と彼は電話ボックスの前で車を停める。貴重品だけは持って電話ボックスに向かうが、そこにあった2つの公衆電話はどちらもコイン投入口が詰まっていてコインが入らない。仕方なくタクシーに戻る。向こうに別の電話ボックスがあるからそっちに行ってやると言うが、ここからピカデリーまではどのくらいかかるのかと聞くと15分ぐらいだと言うのでそれなら直接向かってくれと頼む。15分で着くのなら電話でぐずぐずしているのは時間の無駄だからと。それにしても15分だって?それで£50は高いじゃないか?

 この運転手、怪しいには怪しいが、人は良さそうでいろいろと話しかけてくる。ロンドンのホテル代は高いと言うと、昔はこんなじゃなかったが数年前からそうなったという。何でそんなに変わったのだと聞くと政治のせいだと。税金のことを言っていた。どこ出身だと聞くと、小さいころからこの街に住んでいると言う。しかし彼の英語はアクセントが変で、本当だろうかと思う。ウソをついていて本当はどこからか来たのか、それとも、貧民層の出身かのどちらかだろうと思う。ロンドンっ子だからといって全てがクイーンズイングリッシュを話すわけではない。オードリー・ヘップバーンの『マイフェアレディ』のシーンが思い起こされる。しかし、この運転手、どこか憎めない。

 タバコを吸っていいかと聞くと、全然構わないがその代わり1本くれないかと言う。別に1本くらいいいよと差し出すと彼も吸い始めた。

 全体にイギリスは喫煙者が結構多い。さっきのバスの運転手も荷物を降ろすときにタバコを口にくわえながら作業していた。店に行ってももちろん禁煙の席もあるが、屋内でも喫煙できる場所が結構ある。これはアメリカとはかなり異なる印象だ。しかしあとで知ったことだが、イギリスではタバコの値段が高く、1箱で£3.5〜£4くらいする。日本円に直すと、700円〜800円という感じ。税金のせいだ。だからイギリスではあまり他人のタバコをもらわない。もらう場合はあとで必ず返すというのがマナーとなっているらしい。なるほど道理で。だからタクシーの運ちゃんは、タバコをくれって言ったんだな。と後になって合点がいった次第。

 タクシーはピカデリーサーカスの Regent Palaceホテルの前に到着。運ちゃんは、さっき電話ボックスに寄るためにちょっと遠回りしたから£5足して£55くれと言う。おいおい、そりゃねえだろ。その£5はまけとけよと言ったら、I have a big family.... と言い出したので思わずおかしくなって、もう何でもいい気になって金を払う。まるで映画みたい。

 ホテルのレセプションに行って予約のバウチャーを渡すと簡単にキーカードを渡してくれた。夜遅く着く客もきっと多いのでこんなことには慣れているのだろう。

 友人からメッセージが届いていますと言われる。友人のイギリス人に、日曜日にホテルに着くからと連絡しておいたのだ。しかしまさかこんな夜更けにつくとは思いもよらなかった。メッセージには Maybe you will be in London tom...とあり、電話番号が書いてある。tom...って何だ?ああ、tomorrow のことか。しかし、もう電話をかけるには遅すぎる。明日の朝にしよう。

 部屋は6階の6024号室。

 このホテルは本当にピカデリーサーカスの裏にあり、目の前はチューブのピカデリーサーカス駅(Picadilly Line と Bakerloo Line がとおっている)という最高のロケーションにある。ちなみにピカデリーサーカスは日本でいうと新宿あたりに相当するような繁華街。ソーホーは目と鼻の先。周りには飲み屋もいかがわしい店もひしめいている。しかしこのホテルはエコノミークラスで、安い。ただしシャワーとトイレはshared(共同)。これで1泊(朝食つき)で8,800円。4連泊で予約してある。ただしホテルの正面には、ROOMS AVAILABLE FROM £49.00と書いてあったから、日本で予約する方が安いのかも知れない。

 部屋に入ったのは12時半。やっと人心地ついた感じ。さっきレセプションに教えられた番号を回し、Can I take a bath ? と言うと、バスルームはないと言う。確かにそうだ、分かっている。シャワーと言い直すと、ちょっと待ってと言うので待つとルームサービスの男がバスタオルを持って現れる。ついてこいと言うのでシャワールームまでついていく。中に入ると、床のタイルがちょっとめくれていて荒れた印象。安いだけはあるなあと思いつつシャワーを浴び、部屋に帰ると暑い。せっかくシャワーを浴びてもまた汗が噴き出してくる。なお、部屋にエアコンはない。

 これも後で知ったことだが、ロンドンではたいていのホテルにエアコンはないそうである。数年前にロイヤルアルバートホールにエアコンを入れるかどうかということが論議になって、結局入れなかったことがあったとか。なぜ入れなかったかというと、最終的な理由は建物が古くてエアコンを入れるに適していなかったということらしい。ことほど左様にロンドンにはエアコンはない。もちろんチューブにもない。だからチューブに乗っていても汗だく。しかし普通はこんなにロンドンは暑くないのだそうで、この日曜日から火曜日までは異常に暑かった。ロンドンっ子もかなりまいっていたらしい。

 あまり暑いので外を散策する。その方が涼しい。

 ピカデリーサーカスはもう1時なのに人でいっぱい。ホットドックの屋台があったので1つ買う。考えてみれば、飛行機を降りてから何も食べていない。日本の屋台の焼きそば屋のように鉄板の上でソーセージとタマネギを焼いている。タマネギは比較的小さく切ってあって、だいぶ焦げている。私の前に並んで買っていた人がタマネギをたくさん入れるかと聞かれて肯いている。すると、屋台のおニイちゃんは鉄板の上に溜まった油と一緒に周りが焦げたタマネギをすくって、すでにソーセージが載せてあるパンに入れていた。私も同様にしてもらったが、後でイギリス人の友人にその話をしたら、ロンドンで最も危険な食べ物だねと笑っていた。

 ホテルの部屋に持って帰って、ホテルのエレベーター脇にある自動販売機で£1で買ったコーラと一緒に食べる。大して美味しくない。しかしこれがロンドンについて初めての食事であった。

 1時半にベッドに潜り込んで1日目が終わった。

 ケンブリッジでワゴンの運転手が私に尋ねた言葉がよみがえる。

 A long day?

 眠りにつきながら私は答える。

 Yes, yes, it was a long, long day for me! But the trip has just started.

 (イエス、長い長い日だった。でも旅はまだ始まったばかりさ)

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