いくらかの便意さえ感じていたというのに(あれほど便意には敏感であれねばならないと思っていたのにもかかわらず)、私は、テイト・ギャラリーで上映されていたジャン・ヴィゴの "Concerning Nice"(ニースについて)の前を離れられなくなってしまった。

 









▲どう見ても機内食…
▲Foyles外観
▲Waterloo駅で
▲地下鉄車内風景
▲テイトギャラリー外観

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   
 2002年7月29日(月)

 8時起床。疲れているはずなのだが、起きてしまった。

 8時50分、ルームスービスに朝食を頼む。部屋まで持ってきてくれると言う。安ホテルのはずなのに部屋まで持ってきてくれるなんて、と思っていたら、ノックの音が。ドアを開けると、メイドさんがプラスティックの箱に入った朝食をいくつか持って立っている。そしてその一つを私に渡す。何じゃこれは。どうみても機内食。クロワッサンにライ麦パン、バターとジャム、青リンゴ、まさに機内食という感じのオレンジジュース、そして紅茶のティーバック。

 これをホテルの部屋で食べるのはちょっとわびしかった。一人で行動するのには慣れていて全然気にならない私だが、さすがにこれ時ばかりは…。

 10時、ホテルを出て、Shaftesbury Avenue(シャフツベリーアヴェニュー)を歩いて、Cambridge Circus へ。さらにCharing Cross Road(チャリングクロスロード)を歩いて、FOYLES という書店へ行く。ガイドブックによると大きな書店だということだ。詩のセクションに行く。壁に"Without Experiments, Literature Dies.―Ezra Paund" と書いた紙が貼ってある。実験がなければ文学は死ぬ、という程の意味だ。ちなみにエズラ・パウンドは20世紀の有名な詩人。こんな言葉が書店の壁に貼ってあるなんて。やはり日本よりは文学が身近なものとして受け入れられているのだろうかと感心する。

 Neil Astley という人の編集による "NEW BLOOD" というアンソロジーを買う。比較的新しいイギリスの詩人を集めたアンソロジー。収録された詩人の生年を見ると、1940年代から、一番若い詩人では1970年生まれまで。1970年生まれと言えばまだ30代前半だから最も新しい詩人を集めたアンソロジーと言えるだろう。しかし私の拙い英語力で果たしてどれほど読めるだろうか。さらに、"Poetry Review" という詩の雑誌を求める。

 この書店は、4、5階あってとても充実した書店だった。1階では本棚を売っていた。そういうところもユニーク。ここを出て向かいの書店にも入る。こちらは BORDERS というアメリカのチェーン店の書店。2階のカフェで休む。メニューを見ると、カフェラテがある。あれえ、イギリスは紅茶じゃないの。コーヒーが主力商品なんて…と思っていたらここは Starbucks Coffee だったのだ。そういえば、スターバックスはロンドンの至るところにあった。うーん、スターバックス恐るべし。紅茶の国をコーヒー色に染めている。トーキョーの至るところにもあるし。緑茶の国をコーヒー色に染めて…。いやそれほどのことでないが。もともとスターバックスってアメリカのシアトルから発した店だよなあ。でもつくばにはないんだよな。どうでもイイ話だけど。

 休憩しつつ日本宛のポストカードを書く。

 ここはチューブの Tottenham Court Road (トットナムコートロード)駅に近いのですぐに Northern Line に乗り、Waterloo で Jubilee Line に乗り換え、12時40分、London Bridge 駅へ。Tate Modern Gallery へ行こうとしていたのが、あとで聞いたら、Waterloo から歩いても同じくらいだったらしい。つまりどの駅で降りても結構歩かなくてはならないところにあるのだ。

 Southwark Cathedral(サザーク大聖堂)の庭を通る。ちょうどランチタイムだったので、ビジネスマンがその庭でランチを取っている。買ってきたサンドイッチなどを芝生の上で食べているのだが、本当に芝生の上は人でいっぱいだった。一般的に言って欧米人は屋外が好きだ。カフェには必ずテラスやパティオがあるし、天気さえ許せば屋内よりも屋外を選びたがる傾向がある。最近は屋外用のパラソルの内部に暖房器具をつけたヒートランプというものさえある。そうまでしても外で飲みたいのだろうな。日本でも近年はそういう傾向はあるが、本当に欧米人はアウトサイドラバーだなと感じる場面は多い。それはともかく。

 The Clink Prison Museum、Shakespeare's Glove Theatre の前を通り、バンクサイドを歩いて、テイトモダンギャラリーに到着。テイトギャラリーは1987年設立の美術館。サー・ヘンリー・テイトが設立したのでテイトギャラリーと呼ばれている。かつては一つだったが、2000年から現代美術部門を独立されてテイトモダンが出来た。

 なお旧テイトギャラリーはもとの場所にテイトブリテンとして16世紀から19世紀の作品を展示している。ちなみに私が17年前に訪れたのは今のテイトブリテン。ヴィクトリア駅から歩いてテムズ川のほとりにある。(野糞事件のあったところだから忘れない。)前に行った時にはちょうどフランシス・ベーコン展が終わった時で、ベーコンの作品が壁から降ろされた状態でロックされた扉の向こうに並んでいたっけ。ずいぶんと残念に思ったものだ。その代わりにターナーの絵をたくさん見た。テイトギャラリーはターナーのコレクションでも有名である。

 テイトモダンでは、Matisse + Picasso 展をやっていた。とりあえずチケットを買う。人々が蛇行する列に並んでいるのでその後に入る。イギリス人はよく並ぶ。これは有名なことだが、イギリス英語には「列」を表す queue (キュー)という言葉がある。アメリカ人ならラインというところだ。Please stand in a queue. とか、Get in a queue. という言い方があり、つまり「並んでお待ち下さい」という意味だ。アメリカ人もよく並ぶが、イギリス人の気質を表す言葉としてよく初歩的な文化比較論に取り上げられる言葉。

 チケットは£10。常設展のみなら無料だが特別展は有料というのがロンドンの美術館、博物館の常識。常設展無料は結構だが、いくら特別展とはいえ、£10つまり2,000円は高いと感じる。日本で2,000円の入館料を取る展覧会はあまりないだろう。1,500円までならよくあるが。こういうところでバランスを取っているのだろうか。

 至るところに寄付を呼びかけるポスターと小銭入れが置いてある。その小銭入れの形もユニークでそれ自体がすでにアートになっている。

 チケットには2:45と書いてある。つまり時間によって入場を制限しているのだ。だから見ている間はあまり混まない。これはとてもいいシステムである。日本でよくデパートの美術館が人気のある展覧会を開くと人がごった返していて、思うように見られないことがあるが、あれは本当に噴飯ものだからだ。

 入場時間まで間があるので、まず3階の常設展を見る。ちなみに3階と5階は常設展、4階が特別展となっていた。3階は2つのパートに分かれている。ひとつは、Still Life Object Real Life (静物・オブジェ・現実)。もうひとつは、Landscape Matter Environment(風景・物質・環境)。

 まず入っていって目を引いたのは、Sarah Lucas という女性作家の作品。かなり新しい作家らしい。大きな木の机にパンティとブラジャーを履かせ、パンティの然るべき部分には捻ったタワシを置き、ブラジャーの真ん中には穴を開けて、そこに黄色いくだものを覗かせている。いかにも人を喰った作品だ。その他にも女性の足を型どりそれらにセクシーなストッキングを履かせたものもあった。そこだけ見ればとてもセクシーなのだが上半身の部分には人の形はない。人を驚かせるような作品群であると同時に、ずっと見ているとそれらが性をモチーフとしたシリアスなテーマを持っていることに気付く。そして、こうしたユーモアとシリアスの混淆とも言える作品群はやはり必要だと思った。次に進むとそこにはアンゼルム・キーファーの巨大な作品があって、それは大きなキャンバスに独裁者ふうの自分が油彩で描かれ、その上をバラの枯れたツタが一面覆っているという作品なのだが、とてもかっこいいと感じる。それをかっこいいとミーハー的に表現していいのかどうかは分からないとしても、キーファーは何年か前に日本でも大きな展覧会が開かれ私もそこに足を運んだ一人だが、つまり日本でも大きく取り扱われることの多い作家なわけで、その取り上げられ方は、やはりそのかっこよさと無縁ではないだろうと思うわけ。しかしそのかっこよさの背景にはサラ・ルーカスのようなユーモアとシリアスのない交ぜになったような厖大な作品群を必要としているのだという気がしてならなかった。

 その他にもたくさん印象に残る作品はあったが、ひとつひとつ挙げていくとキリがないので最後にひとつだけ。

 それはビデオインスタレーションも多く展示されていたことだ。そしてジャン・ヴィゴの "Concerning Nice"(ニースについて)という短編映画作品が上映されていたこと。ジャン・ヴィゴと言えばとても評価の高い夭逝した映画作家。代表作は『アタラント号』あるいは『新学期・操行ゼロ』。彼はドキュメンタリー映画から出発したのだが、『ニースについて』はジャン・ヴィゴがニースに滞在していた時その観光地としての華やかさと共にその裏側にある貧しさを描いたドキュメンタリー作品だ。それを目にした私は、無声のその映画の前を離れられなくなってしまった。いくらかの便意さえ感じていたというのに、(あれほど便意には敏感であれねばならないと思っていたのにもかかわらず)その映画を最後まで見てしまった。それはその映画に単なる記録を超えた芸術性を見出したからだと思う。それにしても美術館がビデオや、映画さえも美術の一部として展示に取り入れるという姿勢は、美術に対するトータルな姿勢の表れであろうと感心させられた次第。

 さていよいよ2時45分になったのでマティス・ピカソ展へ。マティスとピカソを並べて展示するというキューレターのアイデアは秀逸だと思った。疲れてきたのでいくぶん急ぎ足。

 疲れたので1階のカフェで昼食。外に出てタバコを吸っているとアジア系の少年たちが団体で来ていた。そこへ引率者らしきイギリス人が一人の少年を連れてきて、彼は£200なくしてしまったというような話をしている。その後他の子供たちに十分気を付けるように話をしていた。£200といえば4万円に相当する。かわいそうに。

 その後5階の常設展を見て、1階のミュージアムショップで買い物。ミュージアムショップは売っているグッズが洒落ていてお土産にするには最適。鉛筆にしたって街の土産物屋に売っているのは大きくLondonと書いてあってその脇にユニオンジャックとダブルデッカーとバッキンガム宮殿の衛兵の絵が描かれているものだもんなあ。小学生ならそれでもいいけど、高校生ぐらいにはちょっと子供っぽすぎる。その点、ミュージアムショップなら TATE とだけ書いてある鉛筆。デザイン的には遙かに優れている。これでも£0.5するんだからたくさん買う場合は馬鹿にならない。50本購入。

 もう4時半。本当にじっくり見ようと思ったらまるまる1日がかりだなと思いつつ、再び歩いてロンドンブリッジ駅へ。今度は、Northern Line で、Elephant & Castle 駅まで行き、そこでBakerloo Line に乗り換え、Piccadilly Circus へ戻る。ホテルに着いて部屋に入ろうとすると、キーカードを挿入してもドアが開かない。何度試してもダメ。仕方なくレセプションに行き、人に来てもらう。リセットしてくれる。

 ところでまだイギリス人の友人 Glenn には連絡がついていない。今夜会う約束をしていたのに。日本を発つ前に彼に聞いていた両親の家の電話番号を回すと、父親が出る。私のことは聞いていたらしく、「息子は、ホテルに携帯電話の番号を残したと言っていたが…」と言う。

 携帯電話?

 ホテルのレセプションに、何かメッセージが届いてないか聞くが、何もないと言う。昨日受け取ったメッセージの紙をよく見ると、電話番号が二つ書いてある。私は何度か最初の番号にかけて通じなかったが、もしかしたらこの2つ目の番号かしら。最初の番号は、01206 で始まっているが、2つ目の番号は 07817 で始まっている。もしかしたら07…で始まるのは携帯電話じゃないだろうか

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