岡田有希子のことは、今でも何かの折につけて思い出す。それは会社に向かう途中の冬の寒い朝だったり、彼女が逝ってしまった春−満開の桜の下だったりした。それが起きたのは’86年4月8日、全国で入学式が行われている真っ最中だったのだ。だから当時学生だったファンは、なおさら後々まで印象深い事件としてトラウマになっているのだろう。もはや彼女の享年に等しい時が流れた。

 当時、筆者はすでに会社員だったが外回りの営業をしていて、たまたま入った電気屋に彼女の載った東芝の家電製品のパンフレットがあり、何気なくもらった。会社に帰って、彼女の事を聞かされ “ああ、ちょうど、パンフレットをもらった頃だったんだ…” と思った。

 それから、ポニーキャニオンから発表したシングル盤をすべて入手し、順番に聴いてみた。実にあっさりとした、はっきり言えば “面白みのないアイドル歌謡だなぁ…” という印象しか持てなかった。まだSMAPも沖縄アクターズ スクールもハロー プロジェクトもなかった当時、ポニーキャニオンというレコード会社こそがアイドル王国であった。その名に相応しく楽曲提供者には尾崎亜美や竹内まりやが名前を連ねている。曲も歌唱も非常にソツなくまとまってはいるのだが、結局それだけでしかない。つまり個性というか、同時代デビューで言えばあの中森明菜を想起させるような情念がまったく足りない。

 さすがに最後の3枚('85.10. 5「Love Fair」 売上12万枚(最高位5位) '86. 1.29「くちびるNetwork」 売上23.1万枚(最高位1位) 「花のイマージュ」当時は発表されず)には、かなり色々なものが見え始めてくるが、結局、それは人間としての深みの問題なのかもしれない。この「Love Fair」の頃、岡田有希子はドラマ『禁じられたマリコ』(本放送は'85.11.5からスタート)で俳優・峰岸徹と出会う。というわけで筆者にとっての岡田有希子と言えば「くちびるNetwork」につきたのだ。松田聖子、坂本龍一というとんでもないコラボレーションから生み出された傑作だと思う。彼女の13回忌を期に解禁された 「花のイマージュ」が、これまたとんでもない傑作で、実はあの時の岡田有希子には大変な可能性が広がっていたのだ。それが筆者には残念で仕方がない。

 アイドルとしての岡田有希子は世に生を受け、わずか2年に満たない生涯であった… 同期には吉川晃司や荻野目洋子、南野陽子、本田美奈子、河合美智子等がいる。佐藤佳代としての人生ですら18年しかない。現役時代の彼女には優等生サンという印象しかなく、まして筆者は当時、“なんてったってアイドル”キョンキョンこと小泉今日子のファンだった。たった一度だけあった握手会のチャンスも、バッティングした安田成美の方に行ってしまったのだから何をか言わんやである(爆)

 今となっては、彼女の自殺の真相は知る由もないが、少なくとも投身自殺には死への明確な意思がある。『岡田有希子はなぜ死んだか』(上之郷利昭著・新森書房)では、下世話なよもやま話に堕することなく、うなずかざるを得ない冷静かつ客観的な分析が行われている。ぜひご一読を願いたい力作だと思う。

 彼女が齢(よわい)18歳で残したエッセイ『あなただけにこの想い〜瞳はヒミツ色』(青春ベストセラーズ/ワニブックス)を読むと、将来の夢がメルヘンチックに綴られていて胸が痛む。彼女もボーイ フレンドとのデートや結婚にあこがれるちょっとオクテな女の子に過ぎなかったのだ。今の中学生でこれくらい純粋と言うかオボこい女の子は絶滅したんじゃないか? と思うくらいここに綴られている内容は幼い。

 こうした精神的に未成熟な片田舎(名古屋が片田舎かどうかについては議論の余地があるが(笑))の女の子が、両親の元を離れ、大都会に出、しかも芸能界で過ごして行くには、そこはあまりにも特殊な世界だった。佐藤佳代は文字通り幼な過ぎたのだ。

 恋人との交際を事務所に反対されたという理由で投身自殺した遠藤康子事件の余韻がまだ覚めやらぬ頃、岡田有希子の事件もまた起こった。さらに彼女たちのファンもまた同じように彼女たちの後を追ってしまった。これはアイドル投身自殺事件として昭和の事件史にひとつの爪あとを残した。

 純粋にとてつもない可能性を秘めたメチャ クチャ可愛いアイドル候補生が'80年代の終りにいた ということを思い出していただければ、あるいは彼女に少しでも興味を持っていただければ、筆者の目的は既に果たされていると言える。

2004年4月5日号掲載
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[猟TV日記]
封印されたアイドル<1>
岡田有希子
生きていれば、
きっといい女に
なっていただろう…

w r i t e r  p r o f i l e



余 録
稲川淳二のこわい話 番外編


'97.8.5 シネマワイズ

●'97年の夏、大蔵映画が得意としたB級怪談映画の特集上映会があったのだが、その席で特別に稲川淳二怪談コーナーが設けられた。稲川氏は“非常にプライベートな閉じた空間ですし、一回性が高いということで、通常テレビやCDなどで披露しないお話をしましょう” と前置きすると、禁忌アイドル 岡田有希子の話を始めた。

●業界にとって岡田有希子は正に封印されたアイドルであった。彼女の主演作品である大映テレビの『禁じられたマリコ』は正にタイトル通りの禁じられた作品となり、彼女の地元である名古屋ですら再放送を一度やったきりで、それ以降放映されていない。

●最もセンセーショナルだったのは、時の写真週刊誌 “Emma”(文藝春秋) に、彼女の死体写真が掲載されたことだろう。'90年代以降、死体、特に日本人の死体写真がメディアに掲載されることは、よほどのことがない限りなかった。筆者の知る限り、かずきれいこのエンバーミング、あるいはついこの間のイラク日本人外交官殺害事件くらいではなかったか…

●そして不思議はこの “Emma”の記事を巡って起こった。この記事、手足が不自然な方向にねじれ、頭部から粘液質のものが斜め方向に正に飛び出すといったイメージで尾を引いている。カラーで掲載しなかったのが編集者のせめてもの良識だったのだろう。しかし、この記事に関わった人々が次々に変死するという事件が起こったのである。

●特に凄惨でしかも不思議だったのは、関係者の一人がサウナ風呂で変死したケースであった。何とサウナ風呂の石炭などを焚いている放熱部分に逆さまに突き刺さって死んでいたらしい。その死体の状態が常識的には全く説明できないことは、すぐさまお分かりになると思う… 季節外れの怪談となった。

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