中絶胎児の廃棄、院長が認める… 横浜市が発表

妊娠12週未満の中絶胎児を廃棄物として処分する場合、感染性廃棄物として適正に処理するよう、廃棄物処理法で定めている。また、12週以上の中絶胎児の場合は、墓地埋葬法で死体として扱うよう決められているが、院長は“いずれも一般ごみとして廃棄するよう指示していた”と認めた。一般ごみとして処理していた理由について、院長は、専門業者に依頼すると処理費用がかさむからだと説明したという。

(読売新聞)[7月24日1時18分更新]


 もちろん“中絶胎児を一般ごみとして廃棄”する感覚はもはや悪魔の所業であって、こんな感覚の歪んだ産婦人科はとっとと潰れてしまえば良いのだが、筆者が気になったのはもっと別のことである。

 まず、人工妊娠中絶手術に関する数字の物凄さ。年間30万余件とされているから、一日に約822人もの胎児が処理されている計算になる。“その理由は様々であり、やむを得ない事情で行われる…” 神戸新聞では実にサラリと流されているが、中絶を正当化する理由なんて存在しえないと筆者は断言する。例え、その子どもがレイプが原因で生まれてくるのだとしても、それは胎児とは何の関係もないことであり、そもそも胎児を処分する権利など誰にもないのだ。

 この事件に関する記事は、つまりは問題設定それ自体が間違っているのであって、ここで問題にすべきは人工妊娠中絶手術を巡る思想そのものあり方なのだ。

 墓地埋葬法では、12週間以上の中絶胎児は死体として処理するよう定められているが、そこでは肝心の埋葬の義務を負うのは誰なのか? ということについて触れられていない。あえて挙げれば、第5条1項で“埋葬、火葬又は改葬を行おうとする者”という表現があるだけだ。つまりこれは埋葬の意思の有無について述べているだけである。広義に解釈して、客観的に見て埋葬の義務があると思われる者という意味だろうか? また第9条の1項では“死体の埋葬又は火葬を行う者がないとき又は判明しないときは、死亡地の市町村長が、これを行わなければならない”とある。

 だらだらと書いているが、何を問題にしようとしているのか? それは“そもそも病院側に埋葬の義務はあるのか?” ということである。これらの法律を見る限り、生きようとする命を処分する意思決定を行なった張本人は母親であり、母親の埋葬義務の方がはるかに大きいと思うのだがいかがだろうか。

 テレビ朝日の報道ステーションでは、誰なのか一切判別できないモザイク処理映像で “お墓に埋めてくれてると思ってた”などと母親らしき人物が半泣き状態で寝言を言っていたが、これはもちろんテレビ朝日お得意のやらせ映像だろう。ま、いずれにしても中絶手術の主体者である母親のコメントとは到底思えない無責任さだ。

 あるいはホルマリン漬けにされた瓶詰めの胎児も公開されたが、関係者がどういう意図でそんなものを保存しているのか? が全く不明で、視聴者の好奇心をいたずらにあおるだけのそのブツはあまりにもテレビ的に過ぎ、実に嘘っぽかった。

 事件発覚当初、適当なコメントをしていた“伊勢佐木クリニック”の原田慶堂(けいどう)院長は、妊娠12週以上の中絶胎児の手足をはさみで切断した上、一般ごみとして捨てていたことを認めたという。12週以上の場合、大きくてかさばるから処理上、細切れにしていたということなのだろう。つまりこの病院では12週未満以上にかかわらず、いずれも一般ゴミとして廃棄していたわけだ。

 筆者にすれば、中絶胎児をゴミ扱いという病院側の感覚がすでにメチャクチャなのだが、実はそれ以上に凄いのは、これが倫理的な問題ではなく、廃棄物処理法違反だから問題になっているという点だ。廃棄物処理法では妊娠12週未満の中絶胎児を廃棄物として処分する場合、感染性廃棄物として適正に処理するよう定めている。つまり12週未満の中絶胎児は法律的に見ても立派な廃棄物だったのだ。つまり本件は適正に処理しなかったことが問題なのであって、ゴミ扱いすることには何ら問題がないことになる。むしろ病院側の感覚はメチャクチャでも何でもなかったということだ。

 こういう法律を平気で決められる法律屋がいるから、刑法第39条のような被害者救済についてまったく配慮を欠いた机上の空論を法律として規定してしまえるのだろう。心を忘れた立法府などに用はない。12週以上の中絶胎児は母親にさえ埋葬義務を放棄され、あるいは本当は誰に埋葬義務があるのか一切追求されず、一方12週未満の中絶胎児は法律上、ただのゴミである。闇に葬られた中絶胎児の思いを代弁するのは一体誰なのか?

2004年8月2日号掲載
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今回の推薦盤


MUSIQUE CONCRET『Bringing Up Baby』

●貧乏学生時代の'81年にノイズ ミュージックの雄ユナイテッド ダイアリーズ(英)からリリースされ、電子音楽史上最強のハード コアと評されていた作品である。残念ながらたった3000円ぽっちの金がなく、泣く泣く見送ったのだが、再び中古盤屋でその塩化ビニールを発見した時、その価格は10倍に跳ねあがっていた。

●今回、フランスのFractalからめでたくCD復刻された本作は、だから筆者にとってもまだ見ぬ強豪との幸運な再会であると言えた。筆者のつたない論評よりも当時、愛読していたFOOL'S MATE Vol.18(まだ日本のインディーズ専門誌になる前でノイズ ミュージックに大きく誌面を割いていた)に掲載され、筆者にも強力なインパクトを与えたレコード レヴューをそのまま転載しよう。

●…それらのことごとくは演奏者と聴衆の耳の中間にあって“伝達機能”を一義としたメディアであった。要するに手紙のようなものだったのである。しかしながら、これは恐るべきことに単に、“塩化ビニールに極力多くの傷をつける”という偏執的な目的においてその過激さが成立している。周波数のレンジは非常に幅広く、また情念よりも物理的な力と化した電子音のマニエリスムが強烈に波打っているのだ。AB面を通して聴くことは吐き気を催すほどに困難な作業と化していて、実際、健康上有害な刺激と考えられる。ナース ウィズ ウォウンド、ホワイト ハウス、カム以上に複合的でテクニカルな反面、精神より肉体にもダイレクトな影響を及ぼす事は必至であろう…

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