不死身の破壊王が、40歳の若さでこの世を去った。11日午前8時半ごろ、横浜市内の自宅で体調に異常を感じた橋本さんは、救急車で病院へ運ばれる途中に心肺機能が停止し、午前10時36分、横浜市内の病院で死亡が確認された。死因は脳幹出血だった。

サンケイスポーツ 05/07/11


“橋本が死んだ!” そんなニューズを聞いた時、最初に思ったのは、彼が関係していた『ハッスル』のことだ。エンタメプロレス… これは長期欠場中の橋本の復帰をドラマティックに盛り上げるアングルじゃないのか。そんな自分勝手な思い込みは、結局、実に簡単に裏切られることを筆者は知る。

 華やかなアメリカンプロレスのテイストを撒き散らし稀有のスター性を持った武藤、地味ながらスマートでクレバーな試合運びを身上とし、CWA仕込みの欧州プロレスを体現する蝶野に対して、デブっちょで打撃が中心のゴツゴツしたスティッフなプロレスを展開した橋本は闘魂三銃士の中で一番、カッコ悪い浪花節のレスラーだった。

 得意技は袈裟斬りチョップ、水面蹴り、DDT、垂直落下式ブレーンバスター。

 橋本については、新日本プロレスの強さの象徴であるIWGP王者としての実績も申し分ないのだが、やはり対世間という意味でその名前を一躍有名にしたのは、1997年に始まる小川直也との一連の抗争だろう。両者はタッグマッチを含め5試合を戦い2勝2敗1ノーコンテストのイーブンな戦績で、最終決戦(2000年4月7日 東京ドーム)の“橋本真也 34歳 小川に負けたら即引退スペシャル!”を迎える。この試合はゴールデン タイムに生放送され、勝者を予想する電話投票まで行われて、一般の視聴者をも巻き込んでのイベンティな試合となった。しかし、戦績としては互角でも内容的には橋本の方がかなり分が悪く、小川のアスリートとしての身体能力は橋本をはるかに上回っていた。

 通常、プロレスのアングルではこういった試合の場合、橋本が辛勝するというのがお決まりのストーリーであって、本当に引退することなどあり得ないのだが、そのあり得ないことが現実に起こってしまった。リングは社会との合せ鏡とよく言われるが、今の世の中が出来レースを否定する方向に動いているのか、あるいはK-1、PRIDEといった新興勢力に対抗するためには、そしてプロレスが激烈な視聴率戦争に勝ち残り、番組枠を維持するためには、一人のトップレスラーの選手生命をさえ犠牲にする必要があるのか? と、筆者は複雑な心境に陥ってしまったのだった…

 小川のSTOを何発も受けてリングに大の字なった橋本は、うつろな目で確かに何かをつぶやいていた。筆者はあの時、橋本が何を言っていたのか、いまだに知りたいと思っている。その後、公約通り引退した橋本ではあったが、ファンの熱烈な後押しを受けて、カムバックを決意する。新日本プロレスとの様々な確執の後、橋本35歳にして両国国技館でプロレス界のフリーマーケットZERO-ONEを旗揚げ(2001年3月2日)。旗揚げ戦ではプロレスリングノアの総帥、三沢光晴とタッグ マッチながら激突、大成功を収めた。

 橋本はこの新日本からZERO-ONEへの端境期にかなりな数のシュートな試合をこなしている。小川との一連の抗争はもちろんだが、長州力との確執が表面に噴出し、当時の藤波社長が危機感を感じて社長裁定でノー コンテストとした1月4日の東京ドーム、 “新日本プロレス VS. 猪木軍 最終戦争”において猪木軍の刺客として佐々木健介とノールール マッチを行った4月9日の大阪ドーム、など今、振り返ってみると橋本の格闘人生の集大成はこの時期にあったと言ってもいい。

 しかし、本来、経営者には全く不向きであった橋本はこのZERO-ONEによって自らの選手生命どころか寿命そのものを縮めてしまったとも言える。実はこのZERO-ONE旗揚げ以降、筆者の記憶の中に橋本絡みの名勝負はほとんどない。

 筆者にとって橋本といえば、 試合よりもアウト ストーリーで大いに笑わせてもらったことの方が鮮明だ。

 昨今、WWEの影響もあり、試合前後のマイク アピールは重要になっている。日本のマット界で、この道の大家は何と言っても大仁田厚だろう。入場シーンとマイク アピールだけで金がとれたのは後にも先にも大仁田だけだ。橋本の場合、このマイク アピールが全く計算されていない突発性の高いものだっただけにやたら可笑しかった。

 橋本がIWGPのチャンピオンだった時代、挑戦者の煽りのマイクを受けての一言。“どんとこい!” あんさん、いつの生まれやねん(爆笑)

 橋本が激勝した瞬間、乱入してきたセコンドに橋本がフクロにされた後の一言。“おまえら、いいかげんにしろよ!” そのまんまやないか(爆笑)

 この橋本のトンパチさは、実はハッスルという異次元空間を得て大爆発した観がある。 2004年、大ブレークした橋本考案のハッスル ポーズは橋本の持っている子供のような大らかさ、ばかばかしさと時代が見事にリンクした大発明だった。 この大発明は小川直也という格好の広報担当を得て、 まさに社会現象にまでなった。時代はA.猪木の“1・2・3 ダァー!!”から“3・2・1 ハッスル! ハッスル!!”へと完全に移行したのだった。

2005年8月22日号掲載
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[猟格プロ日記]
破壊王 はや逝くか
(橋本真也 追悼)

w r i t e r  p r o f i l e










名勝負 VTRリワインド



01/6/14 大阪城ホール
 Fighting Athletes ZERO-ONE
格闘技興行『真撃〜第1章〜』
○ 橋本 11'57" スタンディング ヒール ホールド ハワード ●


●メイン イヴェントの橋本真也vsトム・ハワードはプロレス内プロ格 マッチとしては近年稀に見る好勝負であったと言えよう。それはトム・ハワードが予想に反して、グリーン ベレー上がりの特殊工作員という経歴にリアリティを持たせる闘い模様を見せたからである。特に関節の取り方(ヒザの裏側を足底を使って固定する、等々)が従来の見慣れたアマレスやサンボのものとはまるで違っていて、橋本もかなりとまどったようだ。それは警察の逮捕術のように特殊なものであったが、最近、“警察の逮捕術こそ総合格闘技のルーツではないのか?”という考えがあり、それも手伝って、この試合は非常に興味深いものとなった。

●またハワードの筋肉の付き方だが、格闘技向きの非常にナチュラルなもので、ヘソが潰れていたこともあり、筆者にしてみればそれだけで期待できた。

●この試合に限って言えば、小川との一連の抗争におけるプロ格マッチでの経験が生きた。橋本のスタイルはもともとプロレスよりもプロ格向きと言え、破壊力だけをとれば PRIDEでも十分、通用すると思う。実際、プロレスはヘタで、三沢が橋本との交流に積極的でない一番の理由は実はこれだろう。

●問題は長年、プロレスをやってきたおかげで変なクセがついていることだ。ズバリ言ってしまえば不用意に相手のワザを受け過ぎるのである。だからプロレスのカテゴリーの中で行われるプロ格では圧倒的なのだが、そうしたクセをついてくるプロ格の選手〜例えば小川やイノキ祭りでのグッドリッジ〜には分が悪い。実際、ルールとレフェリーの不手際に救われたシーンが2度もあった。

●ハワードのフライング ニール キックはスピード、高さ、思い切りとも満点であったが、これをかわした橋本も流石だった。勝負はこの時点でついたと言ってよく、後は橋本の水面蹴りからの殺人フル コースが炸裂、試合を終わらせるだけだった。

●橋本はおそらくかなり嬉しかったのだろう。興行を無事終えた事、メインイヴェントの相手が予想外に強敵だった事、もろもろがあって思わず“1・2・3 ダァー!!”まで飛び出した。彼の実直な面がストレートに出たいいシーンだった。

01/6/15 記

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