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text/安宅久彦 


 柳井近くの伊保の港。昔、壇ノ浦で敗れた若者が船板に乗って漂流しているのを助けられた。長期間漂流したにもかかわらず生きていたのは、「海の精」すなわち妖魔の助けがあったからである。若者はその土地の女長者と結ばれる。
 間もなく二人は得体の知れぬ病にかかった。ある夜、妖魔が枕元に現れて、「男を返せ」とわめいて女長者を苦しめた。女長者は妖魔と対決すべく、瀬戸内海を航行する船を集めて、伊保の港で大宴会を催そうとした。その前日の大晦日に風雨が起こり、女長者も若者も行方知れずとなった。その後、海の妖魔の打ち鳴らす勝利の太鼓の音が海底から聞こえたという。(以上、石井忠『新編 漂着物事典』海鳥社より)
 それから千年たった。男がある夜、モニターに向かって仕事をしていると、知らない女の名のメールが入ってきた。しばらくためらったが、開いてみると、あるメーリングリストを主催している友人にあてた女の手紙が、誤ってリストに登録されている人全員に送信されていることがわかった。女は友人に、自分あてに二度とメールを送らないよう強く訴えていた。
 その女に送信ミスを指摘するメールを送り、数分すると女から返事が来た。ごめんなさい。私はSさん(友人の名)から、ネット上でひどいセクハラを受けていたのです。その証拠に、環境問題についてのMLなのに、どうして「口が無い」というコトバが何度も出てくるのでしょうか? 私はSさんを訴えるつもり。Aさん(男の名)も協力してくださいね。
 返信として、それはきっと思い違いだということ、Sは嫌がらせをする人間ではないことを書いて送った。トイレに立って戻ると、もう女からの返事がモニター上に広げられていた。女は、男が中学の同級生だったのを思い出した、と書き、林間学校での出来事を覚えているか、と訊ねていた。いっさい記憶にない旨のメールを書き、送信ボタンをクリックすると、それと同時に女からの返信が画面上に現れた。長文のメールだった。覚えていないの? と女は書き、あのころあなたは私に夢中だったでしょう、と、その林間学校でのおもいでらしきものが事細かに書き記されていた。
 あなたは、私の水着姿をからかったわね。私が、開口部を失ったのはそのときからなの。からだから開口部をなくすとどうなるかわかる? からだ中に毒がどんどん溜まり、水銀に汚染された貝みたいになるのよ。
 男はそのメールを閉じようと、メーラーソフトの終了ボタンをクリックした。何度クリックしても、新しいウィンドウが開いて、女の文章が繰り返し現れるのだった。何度目かにふと気づくと、デスクトップの壁紙が夕暮れの海の光景に変わっていた。
 最後に、赤い大きな文字がウインクしながら画面を流れた。
 「海のことを忘れたのか? うしろを見てみろ」
 システムが暴走をはじめた。赤と緑の輝線が縦横にモニター上を走り回った。何度がむなしくescキーを叩き、背後の窓を振りかえると、カーテンが燃え上がって、女が立っていた。