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雪中プレイボール

「いけいけい〜け!」「いけいけい〜け!」
「いけいけい〜け!」「いけいけい〜け!」
「い〜け!お〜せ!うぉ〜、とばせ!」
 アンパ

って?

イヤのプレイコールが掛かるや否や、ベンチの子供たちの流暢な合唱が始まった。5・6年生で構成される一軍は、もうほとんどの子らが数年の少年野球経験を経ている。たとえ年度切り替え直後の新メンバーとはいえ、応援ぐらいは手慣れたものだ。
「さあ、いよいよ始まりですね」
 ちょっとクサイなあ、と我ながら思いつつも、ベンチの長椅子に座る隣りの新監督深川を鼓舞する思いで、雪野は明るく声を掛けた。だが返事がない。ふと見ると、深川のグラウンドを凝視するその目が、いつになく真剣だ。こころなしか潤んでいるようにさえ見える。
(へぇ、この人がねぇ……)
 日頃人一倍茫洋としているこの男でも、こんな目をする時があるのか、と雪野は妙に感心してしまった。
 カィンン!
 応援歌が「かっとばせ〜、ヒ〜ロ〜シィ!」のパターンに変わった直後、この試合最初のボールを先頭バッターヒロシが打った。鋭いライナー性の打球は、しかし三塁線を大きく左に逸れる。
「おっしぃ〜」
 そう言って、膝の上に開いたスコアブックの狭い欄に、ファールマークの三角を書き込もうとする雪野。だが指先が思うように動かず、なかなかその数mmのスペースに三角が納まらない。
「ありゃあ、かじかんじゃってうまく書けないや」
 雪野はシャーペンを握った指先に白い息をかける。だが指先がこわばっているのは、必ずしも寒いためばかりではないことを雪野は自覚していた。深川の大袈裟な緊張の面持ちを笑えないな、と心の中で呟く。それにしても、たかが子供の野球じゃないか、と少々情けない気分にもかられながら、シャーペンから離した手を何度かゆっくりとグーパーする。
「うぅ〜、いやな予感がするなぁ……。いつものヒロシのパターンっぽいよ、これは。しっかし、なんでこんな真冬にやんだろね、この大会は」
 そう言う深川の表情は、すでにいつもの気の抜けた顔付きに戻りつつあった。
「ほんとにね〜。好きじゃなきゃ、やってらんないすよねぇ」
 相槌をうつ雪野は、深川の表情の変化に、なぜかホッとするのだった。
 少年野球は、毎年12月に進級式を行い、新しいチーム編成に生まれ変わる。この「いすず杯」なる大会は、その新チームによる最初の大会として、いわば腕慣らしのような感じで、年明け早々開催される。トーナメント形式なので、初戦で負ければそれっきりだ。しかし、あまりの寒さに機械も壊れたか、マーチが途切れて手拍子だけの入場行進となった先程の開会式。小雪のちらつくグラウンドをぐるり取り囲み手拍子を続ける指導者たちの中に混じっていた雪野は、一体ここにこうして立っている大人の何人が本気でこの大会を望んでいるのだろう、と訝らずにはいられなかった。
「よそのリーグじゃ、肩壊すだけだからって、2月一杯までボールも触らせないところもあるのにね」と、深川。
(お、うんちく深川がまた始まったかな)とは、雪野の心中。
 雪野同様自分自身は野球経験のない深川だったが、最近ネットで、少年野球に携わっている大人たちの寄り合いサイトを見つけたとかで、やけに世間の少年野球チームの事情に詳しい。全国規模なので、話は時に北海道から九州、沖縄まで飛ぶ。
「それって深川さん、また北海道のリーグじゃないの?」
「いや、確か江東区のオヤジの書き込みだったよ」
「ふう〜ん……」
 そんな呑気な会話を交わしている監督深川、助監督雪野の前で、先頭バッターヒロシは2球目も初球そっくりのレフトへの大ファール、3球目に大振りしたバットは見事に空を切り、結局、三球三振で終わった。
「あ〜! やっぱし思った通りだよ。ヒロシ、あればっかだもん。3軍の時と全然変わってないじゃん」
 のけぞりながらそう呻く深川の顔は、もうすっかりいつもの感じに戻っている。なぜかまた、それを見て雪野は安心した。だんだんシャーペンの筆先も滑らかになってきた。
 こうして徐々に、この、先行き怪しいわが丘神ファイヤーズ新一軍との関係にも馴染んでゆくのだろう――そんなことを思いながら、ネクストバッターのシンタに、期待のこもった視線を雪野は注ぐのだった。