ようちえんから帰ってくると、ママがテーブルに突っ伏して泣いていた。まるで床に転がった子犬みたいにしくしく泣いていて、私はびっくりして恐る恐るママに近付いた。

 ママ、どうしたの? どこかいたいの?

 ママは何も答えない。ママは身体を震わせながら赤ちゃんみたいにわんわん泣いていて、時々車にひかれて死にそうな猫みたいに、痙攣するみたいに左足首がぴくぴく動いた。私はママの横を通って自分の部屋に入って、ぬいぐるみを持ってベッドに潜った。いつもは3つ鍵をしていたけど、今日は何となく大丈夫な気がしてドアノブの鍵を一つだけ閉めた。

 ベッドの中でうとうとしていると、ママがドアをガチャガチャ回して鍵を壊そうとしている音が聞こえてきた。私はふとんを頭からかぶってカブトムシの幼虫みたいに小さくまるまってくまのぬいぐるみを握り締めた。ママがドアをガンガン蹴って、ガチャ、と鍵を壊して入ってきた。いつの間にか私は寝ていたみたいで、部屋の中は真っ暗になっていた。ママはドアを開けて、ゆっくり部屋の中に入ってきた。ドアを開けたから、イライラが収まったのかもしれない。私はふとんからそっと顔を出して、薄目を開けてママを眺めた。真っ黒い部屋の中で、ママの身体は真っ黒い影みたいに見えた。細くて柔らかい髪の毛がちりちりに散っていて、長いベージュのカーディガンを羽織ったママは、ゆらゆら揺れる水草みたいだった。ゆっくり、ゆっくり、ママは私のベッドに近づいてくる。ママが私のベッドに腰を下ろした。そして小さな細い、か弱い声で、何かの歌を歌い始めた。私はすごく悲しくなって、目を開けてママを見た。ママは上の空で、綺麗な声で歌い続けていた。

 それからしばらくのママはずっと泣き続けた。お酒を飲まないで、ただ泣いて、時々ふらふらと家の中を水草みたいに歩いた。時々、私の部屋に来て歌ったり、私の頭を撫でて泣いたりした。パパが帰ってきたときも、ママは殴りかかったりしなかった。パパが家の中にいる間中ただじっと、寝室のベッドに潜って泣いていた。

 パパ、パパ、ママこわれちゃったの、パパがくれたまゆのわんちゃんみたいにうごかなくなっちゃったの

 パパは優しく私の髪を撫でて、それから目に手を当てて少し泣いた。

 次の朝、起きたときもパパがまだおうちにいた。パパはベッドに座って、ママをずっとなでていたみたいだった。ママは泣くのをやめていて、まゆの音楽を歌っていた。

 ゆるやかな カナリアが うたう
 鳥のように
 とんだ まわる うたう

 私は準備をして、幼稚園にむかった。バスに乗るとき、先生に、こう言った。

 せんせい、まゆ、もうおうちにかえりたくないから、せんせいが、いっていたシセツに、いく。

 私は海の近くの、パパのおかあさんのおうちに住むことになった。パパは、週に二回、まゆのところにあそびに来た。ママには、もうずっと会っていない。たぶん、ひらひら飛んでいるんだと思う。芋虫でも、さなぎでも、いられなかったから。
(了)

2007年7月4日号掲載
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