text/吉田直平


「まず、こうねえ、道がずうっとあるの」

「ま、道はたいていあるでしょう」ぼくが言った。「たいていね」

「駅前のロータリーが五叉路になってるの」

「昔の田園調布みたいに?」

「うん」(それはふたりの記憶違いだ。田園調布のパン屋がある西口は四叉路のロータリーだった)「そして改札をぬけると、巨大な半円の空間であるロータリーが、何もないまま曖昧に広がっているの。ロータリーといっても、中央にマリーゴールドやハボタンの花壇があったり、夏には水が涸れるような噴水があったりするわけでもなくて。広大な田圃を越えて集まってきた放射状の道が、ただ、ロータリーになっているだけなの。見渡すかぎり、ほとんんど建物の影も見えなくて。正面の扁平にのびた丘の裏に、その五本の道が消えていくのが見える」丘はたいして高くもなく、右から三本目の道は、それとはなしのかそけきカーヴをひいて楽々と丘の頂を越えている。

 野鳥の小さな影が、かぼそい囀りを残してすぐ眼の前をかすめていった。眼に見えぬもののように群青の空気に霞むシルエットと、きんきんした鳥の声とはまったく一致しない。周囲のもの同士が隔絶して感じられる。夜の残滓がすっぽりと躯をくるみはじめていることも関係あるのかもしれなかった。「プロトン?」

 三回呼ぶまで返事がなかった。「どこへ行ってたんだ?」

 べつに、と彼女は答えた。「ずっとここにいたわよ」

 ぼくは少し喘ぐように言った。「呼んだんだ」

「そう?」霧と、暗いのとで、表情が見えなかった。そこにいるのかどうかさえよくわからなくて、ひょっとしたら背後にいるのかもしれなかった。

 霧――というより、うんと細かい雨なのだ。曖昧に広がるロータリーの、どっちつかずの地点で、ぼくは眉毛の上に雨滴をためていた。鼻の脇を滑り落ちてくる、ぬるぬるの雨滴。

「その五本のうちの真ん中の道で丘をのぼっていくと、周囲数キロの風景が不意に立ち上がったように感じるの」異様なのは、喫茶店も、煙草屋も、観光案内所すらないこの駅前のロータリーが、真新しい黒いアスファルトで完璧に整備されていることだ。そのアスファルトが隠れていく向こうのほうまで、一面はねあがる雨水でささくれだっている。

「丘を越えると田圃は急に消えうせて、艶々と光る草が密生した湿っぽいにおいのする空間が延々続いているの。それを静かに見渡せば、西の方角に、影のようなちいさな納屋が陥没しかかっているのが見えるの。――ねえ聞いてる?」ぐっしょりと雨の染み込んだ運動靴を意識して持ち上げるようにして、ぼくは陶然と歩く。

「聞いてるよ」一瞬通過していく激しい驟雨。

「その納屋は、さらに拡散していく五本の道のどれからも外れていて、そこに辿り着くためには、得体もしれない湿地帯を 100メートルも横断していかなくてはならないのね」右から三番目、左から三番目の道。五本の道はどれも同じ約15メートルの幅で、それぞれの入り口に制限時速40km/hを示す赤と青の標識が唐突に屹立している。右の二本は一方通行出口、左の二本は一方通行入り口の標識板がそれに並んでいる。右から三本目、左から三本目の道。

「そこに辿り着くためには?」

「そうよ」たしかに丘は低く、あっというまにのぼりきってしまう。「あたしはその納屋に泊まったの」

2004年5月31日号掲載

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