ギュッティエレ様、ドン・ギュッティエレ・ド・サルダーニャ、おいでになってはいけませぬ。お願いでございます。もっとわたしと将棋を遊ばして!
       ―――プロスペル・メリメ/杉捷夫「トレドの真珠」

黒人の騎士チュザンニは、トレドの真珠と褒め称えられる絶世の美女オーロールを手に入れるために、ドン・ギュッティエレに果たし状を渡す。だが、泉水のほとりで、騎士は無惨にも決闘に破れ、命果てようとしていた。そのとき駆けつけたトレドの真珠に、騎士は……。

物語の最期に示された騎士の行動。自分のもっとも大事な、愛するものを傷つけることでしか、自分の存在を残すことのできなかった最期。……そのまま、雄々しく逝くこともできたはずなのに、今際のきわにそれを容易く超えてしまった衝動。そのひとつしか、自分を残す選択肢がなかった切なさ。

たった3、4頁ほどの物語に、酷く掻き乱された。騎士の最期を思うたび、わたしも、実際にではないけれどわたしの心の中で、いちばん大事なものに似たようなことをしてから、逝きかねない予感がしてならなくて(でも、もちろんひとを傷つけたりはしない)。確かにあるこの衝動を、ふだんは宥めているつもりなのに、ときどき苦しくて苦しくてどうしようもなくなってしまうからなのだった。

だれの心の中にも、感情や理性をもってしても感知し得ない心の深淵や闇は、きっとある。それは思いもよらないときに顕れて、わたしたちを襲うのだ。どうしても避けられない一撃で。湧きあがる畏れに身体が戦慄くたび、そこからはどうやっても逃れようがないのだと、もっとも恐ろしい事実に、今この瞬間も気付かされつづけている。

でも、それでも、その衝動は、たとえば「わたし」にとって、「真実」であることは否定してしまうことができないのです。

2008年4月14日号掲載


▲page top

turn back to home | 電藝って? | サイトマップ | ビビエス

エトルリヤの壷―他5篇
プロスペル・メリメ/杉捷夫
岩波文庫 (1971/01)
ISBN-10: 4003253418