古今漫画夢現-text/マツモト

早見純「変態少年―純の幸福な日々
(リターン・フェスティバル)」

「自分ほどモラルのある作品を描いている
マンガ家はいない」――恐るべき発言だ。

今回は早見純の『変態少年』である。どう見てもタイトルからしてヤバイ。そもそも新年度早々にこのような作品を挙げるのは何とも心苦しいのだが、あまりにも衝撃的だったのでご紹介したいと思う。早見氏は1978年に週刊少年サンデーで佳作に入選し、5年の沈黙の後にエロ劇画誌で連載を行っていたという。ぼくが他に読んだ『ラブレター フロム 彼方』『純のはらわた――血みどろ怪奇作品集』『純の魂』などから推察すると、氏の作品群には、特に無意味かつグロテスクな描写が目立つ。美しい少女たちへの暴力行為や陰惨な行為は、それ以上の説明なしで唐突に終わってしまうことが多い。

この類の作品群は、約20年前の連続少女殺人事件をきっかけに退潮していったと言われている。しかし、最近になって早見氏の作品はあらたに傑作選として出版されはじめた。私が早見氏の存在を知ったのは、このことが背景にあったのだろうか。知人は2年ほど前に、駕籠真太郎や大越孝太郎の作品の中に『変態少年』を紛れ込ませて持ってきたのだった。
本書では、作者と同名の(!!)少年が自身の抑えきれない性欲を思いつく限りの方法で解消しようとする。醜く鬱屈した表情の純少年が金槌や爪楊枝をもって性器を弄り、女性用の下着を着けては少女と交情する場面を演じ、あるいは妄想に浸って自慰行為にふける姿が何度も描かれる。

初めてこれを読んでひどいショックを受けた。虫酸が走り、胃の内容物が逆流する。二度と読みたくない、とさえ思った。あまりにも陰湿でグロテスクなのだ。それは、先に挙げた形容と同じニュアンスで言うのではない。これはむしろ、自分たちの身近な生活の傍に潜む性に対する陰湿さ、グロテスクさを指す。女性の下着を食い込むほどに穿き込み、自らの性器を血が出るほどに弄り倒す者など、この普段の生活の中ではおよそ考えられない。考えたくもない。しかし彼のような妄想を、あるいは妄想のごく一部でも、生まれてこの方思い浮かべたことがないと断言できる者などいるだろうか。いないはずである。純少年はみずから、この世界で想像しうる行為の極北を体現しているとしか思えないのだ。

ここに至り、早見氏がインタビューでこう応えていたのを思い出す。「自分ほどモラルのある作品を描いているマンガ家はいない」――恐るべき発言だ。性器への過剰なこだわり、抑えきれないほどの性欲の持ち主の姿を道徳的だと誰が言うのだ。本書終盤ではついに、純少年自身が作品を描く姿が描かれる(『純の本番』)。彼は、読者が目鼻から血を出して悶絶する光景を想像しながら、自らの暗い情念を原稿へ叩きつけてゆく。本書を「モラル」として読む時、自身の欲望と他者への恐怖のあいだを幾度も幾度も反転しつづけ、もろに主観的な体験とそれを客観視しようと苦悶する作者の狂おしい世界に巻き込まれて、読者は主人公と作者の別を見失ってゆく。「これがぼくだ!!」とばかりに性器を振りかざす姿はおぞましくもあり、これを突き抜けては滑稽にさえも映る。

もっともこの発言は、早見純氏の諸作品に通底するものだろう。しかし申し訳ないのだが、おもに早見氏が執筆しているホラー作品は、先の駕籠真太郎や大越孝太郎と比べると徹底さ、豊かさが足りず、どうしてもいくらか見劣りする。だがこの『変態少年』ばかりは、期せずしてか作者の怨念こもる真骨頂、鬼子となって突出している。これほどまでに醜怪で、自虐的に性的な暗部をえぐりだす本書こそ、他に類を見ない。そういった意味でぼくは、好悪にかかわらずこの作品を高く評価したい。

2009年4月19日号掲載 このエントリーをはてなブックマーク

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w r i t e r  p r o f i l e

早見純「変態少年―純の幸福な日々 (リターン・フェスティバル)」(久保書店)p.104『七号室の怪物』
よくここまで描くよ…。作者の怨念と労苦がしのばれる。

同p.160『君が熱いうちに』
こういったネタは、ギャグ作品としても十分に成立できる。2コマ目のセリフが最高。
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