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text/大須賀護法童子

今日許しがたいのは、文学を根拠なく聖別する退廃的な態度をいまだ多くの作家が取り続けていることだ。その態度に終止符を打つには、「文学は役に立つ」と言い切って、それを実際使ってみせるしかない。


ジャン=ポール・サルトル
(1905.6.21〜1980.4.15)

 

塚本敏雄は、「詩のペデストリアン34」(本誌053)で、「カリスマ詩人」(!)や相田みつを、326らの詩の意味を問うている。それらの詩に特に関心があるわけではないが、塚本がそれらをあえて取り上げるのは、「現代詩」というジャンルをそれらのコトバ商品との関連できちんと輪郭づけたいということだろうし、その裏には現代詩や純文学といったものを根拠なく聖別したくないという意識があるのだろう。その問題意識に基本的に共感を感じる。
今日許しがたいのは、文学を根拠なく聖別する退廃的な態度をいまだ多くの作家が取り続けていることだ。先日、文芸評論家の渡部直己に近畿大学教授としての意見を聞く機会をもったが、「文学を教育するんじゃなく、文学で教育する。学生に文学を通して生きる力を与える」と、彼が文学の有効性をはっきり肯定していることに好感をもった。渡部は『本気で作家になりたければ漱石に学べ』(太田出版)では「漱石は千円札になったんだから、使うべきだ」とも言っている。つまり、文学を根拠なく聖別する態度に終止符を打つには、「文学は役に立つ」と言い切って、それを実際使ってみせるしかない、ということだ。
かつてサルトルは、「飢えた子供たちの前に文学は有効か」と問うた。いま同じことを問われれば、作家たち、あるいは文学愛好家の多くは冷笑するか、「そんな問いそのものが無意味なんだ」といったいかにも正論風なことを口ごもりながら答えるか、どっちかだろう。しかし、世間の常識からいえば、文学で口を糊し、あるいは文学をかさに着て威張っておきながら、そんな曖昧な答しか出せないのはおよそふざけた態度としかいいようがない。ここはひとつ、いかに暴論と聞こえようとも、「飢えた子供たちを救うのは文学しかない」とでも言い切って、それをきちんと正当化するような実践をなすべきだろう。

※この問いかけについて、中上健次は80年代に、当時の資本主義肯定の文脈に棹さして「日本で飢えた子供たちを救ったのは文学なんかじゃなく総合商社だった」と書いたが、これは今日、世界史的な認識としては通用しない。現代資本主義のシステムは今もって、というかますますさかんに、発展途上国で飢えた子供たちを作りつづけている。

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