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奈良のローカル線に乗って、劇団「態変」の「BLOOM」という作品を見に行った。

大阪を中心に年に6回ほどの公演を行っているこの舞踏団のメンバーはすべて身体障害者だ。5人のメンバーのうち、この舞踏団を率いる金満里ともうひとりの男性は立つことができず日常生活では車椅子を必要とする。一人は変形した短い腕を持ち、残りの男女2人も足を引き摺り、いびつな体と動きを持っている。金は舞台の床の上をわずかに動く上半身を捻り、回転しながら移動していく。金と愛憎模様を演じるもうひとりの立つことのできない男優は、それでも足に力を入れることは出来て、体を幾分持ち上げることが出来て、そのことによって苦悶するような演技をすることができるが、金の下肢はまったく動かない。その金の動きが極限的でベーシックなものとして、パフォーマンスの全体を限界づけている。

同行した友達は面白かったと言っていたけれども、私は少し緊張してしまうし、嫁さんも少し怖かったといっていた。内容は言葉のないパフォーマンスであるから明示的なものではない。しかし音楽も、使われる小道具も、少し思わせぶりな気はした。何かを表現するために、これらの身体はある、という風で、その表現されている何かを解釈するのが、わずらわしい気分になる。正直な感想である。現れている身体は、ある意味ショッキングなものであるのだから、その現れている身体と、その身体が表現しようとしている何かとの間で、どこかですれ違いがあって、それを持て余していたのだろう。

尼ケ崎彬という人が、「身体の未来 コンテンポラリー・ダンスが切り拓くもの」という文章の中でこう書いている。

   
text/キムチ

キ ム チ p r o f i l e

 

「だが最後にもっとも私たちの身体観を揺るがす舞踏団として金満里率いる「態変」を挙げておこう。メンバーはすべて身体障害者である。金自身一人で歩くこともできない。十九世紀ならば異形として排除された身体だ。しかしその舞台はこれらの身体が正常であることを納得させる。それもイギリスの身障者舞踏団「カンドゥーコ」のように健常者と同じ動きを達成してみせることによってではなく、健常者にはできないダンスをやって見せることによって。態変を見るとカンドゥーコの身体観がいかに保守的であるかがわかる。

カンドゥーコは身障者だって健常者と同じことができましたという美談で感動を呼ぶ。そこでは健常者の身体が標準であることが暗黙の前提となっている。しかし態変は両者の身体が異なることを前提に、それぞれの身体に独自のダンスがあることを示し、その意味で両者に違いがないことを納得させるのである。観客は「標準的な身体」という観念が健常者の思い上がりに過ぎないことを理解する。そして一言で障害者といっても態変のメンバーの身体が一人一人ユニークであることから、いかなる身体もみなそのままで正常だということを知るのである。」(「大航海」2000年8月号)

この劇団を招聘した奈良の教育委員会も「身障者の身体の動きがいかに美しく、そして力強いものか」という紹介をしていた。障害者の身体が、障害者であるからこそ、身体の「身体性」とでもいうものを掘り下げて表現しているというのである。その趣旨は、劇団自身が表明してもいるもので、反対するいわれはまったくない。ただ、ここで身体、身体といわれているもの、その「身体性」とでもいうべきものの性格について、少し考えてみたいとは思う

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