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幼なじみの友だち家族と年末恒例の旅行に出かける。旅行先の大浴場に浸かりながら四方山話をする。

私は、数日前にNAMの全国集会に行ってきた。柄谷行人が呼びかけ人になって立ち上げた社会運動だ。NAMの綱領のようなものは『原理』というタイトルで太田出版から刊行されている。ふろ場で、友だちのKに、そのNAMの話をする。

NAMは、国家と資本主義への対抗運動である。国家への対抗運動であるから、他の社会運動、政党や、市民運動のように、国会へ議員を送り込むという形の運動はしない、という。NAMには三つの系列があり、地域系と関心系と階級系の三つであり、地域は都市を中心に最初は東京と大阪から始まり、次第に分化し、拡大し、そのいずれかに参加することになる。関心系は、理論であったり、教育であったり、芸術であったりといった自分の関心領域でどこかに参加することになる。階級系は、さしあたって、社会人か学生かといったことが問われている。NAMに参加する人は、この三つの系列のいずれにおいても、どこかに参加しなくてはいけない。複数のサブ組織に参加することが、強制されている。これはどこかのひとつの組織に閉鎖的に所属することをなくすためのひとつの手段でもある。NAMは、社会人であれ、学生であれ、人が社会の中でどこかの組織に所属することを排除しない。むしろ社会の中で、人が何かの組織に所属していることは必然的なことであり、その上で、それらの人々を運動として横につなげていくことが、NAMにおいて目指されていることだ。云々。

   
text/キムチ

キ ム チ p r o f i l e

Kは、NAMの話を聞きながら、どうもその話がうまく行く気はしない、という。なるほど、NAMがうまく行くものかどうか、私にはさっぱりわからない。しかしうまく行かないと感じるのは、ではどうしてなのか。「それに、」とKは、やや語気強く言い加える。「対抗して撃たなくてはならないのは、問題のありかは決して国会ではないで。官僚や。」と。彼はウォルフレンの『人間を幸福にしない日本というシステム』を読んでいて、その事には一家言を持っているのである。ただしかし、ウォルフレンを読んだから、Kは得意になってそれを言い募っているというわけでもない。日本という国が、公のために私を殺すことを強いる国・社会であるということは、彼のいわばライフワークなのだ。小学校以来、Kと付き合ってきて、Kがそれを言いつづけることの意味を、私はある程度理解できるつもりである。Kは、精神科医となってクリニックを持った今も、このことを課題に仕事をし、生き続けているようなものだ。

ところで、しかし、官僚をコントロールする手段は、一般的には国会の議員の力を強くすることであり、そこで民意をより良く反映させるようなシステムにすることである。Kもまた、この国の中で、例えば薬剤エイズ禍に対する国家への対抗的な市民運動の中に、これまでとは違った動きの兆しがあるような気がするという。しかし薬剤エイズの運動もまた川田君のお母さんを国会に送り込むことに帰着しているではないか。すなわち、それが市民運動の至りつくひとつの帰結であって、そのこと自体が悪いことではまったくない。しかし、NAMはそれをしないといっているのであって、問題のありかはどこかですれ違っているのである。

薬剤エイズ問題は、小林よしのりがコミットして、一定の成果が上がったときに、彼は、学生たちに、運動を解散して日常に帰れと言って、運動から離れた。そこから、川田君のお母さんの立候補と当選への道のりは、ひとつの必然的でも典型的でもある成り行きで、それがこの先、既視観に付きまとわれた退屈なお話の中に埋もれて忘れ去れてしまうだろう事は、予想できてしまいそうだ。まず我々は、ひとりの市民として、民主主義という社会システムを持っており、その民主主義がある程度の確度で機能するよう、行動し、監視する必要がある。

Kの言っていることは、そのような欧米型の市民社会にも、日本という国はほど遠いということである。日本という国は、民主主義を謳うほどにも成熟していないと。なるほど、Kの言うことは分かるつもりだ。しかし、例えば私は、そのような行動原理を貫き、貫くことによって、さまざまな問題を解決することができるだろうか。それについては、また改めて考えることにしよう

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