11月某日
所用で福岡に行くことになり、せっかくなら本場の“とんこつラーメン”を食べ歩きたいと思った。“とんこつラーメン”といえば、もはやラーメンとしてはクラシックなスタンダードであり、もはや右を向いても左を見てもラーメンと言えばとんこつ! という風潮はある。
ただ、筆者はここ何年来かで食の好みがかなり変わっていて、かつてはけっこう好きだった“とんこつラーメン”が、すっかり苦手になっている。東京に行けば、必ず寄っていた新宿の『博多天神』(都内でもっとも濃厚なスープを出すというのが売り)にはここ数年来、まったく行ってない。あの独特の獣臭も、もはや不快にしか感じない。というわけで、結局、2軒しか回れず、食べ歩きというにはかなりお粗末な内容になってしまった。
[3]博多 長浜 元祖長浜屋
とりあえずは長浜へ行ってみることにした。博多駅から地下鉄1号線に乗って赤坂で降り、そこからやや海に向かって歩く。入手した資料によればこの博多漁港〜福岡市中央卸売市場の近くにはラーメン横丁とでも言うべきか、かなりの数のラーメン屋があるはずなのだが、ほとんど全部、『元祖長浜屋』になっていた。『元祖長浜屋』がこの界隈のラーメン戦争に一応のケリをつけたということなのだろうか?
筆者はしかし、件の長浜ラーメン、旨いと思って食べたためしがないのだ。麺にやたらくどくどトッピングするのが気に入らない。だから、言わば日本中の長浜ラーメンの総本山とでもいうべきこの小汚いほったて小屋に着いても大した感慨はなかった。むしろ、筆者自身の本命であった東京環七通りの行列のできる店として有名な『なんでんかんでん』の師匠筋にあたる『ナンバーワン』が潰れていた(?)方がショックだった。
米塚功のガイドブック『かぶりつき! 全国380軒 ラーメン鑑定書』(読売新聞社)で読んだ通り、メニューはラーメンしかないので、こちらが注文するまでもなく、入店した人数分のラーメンがカウンターのババアによってスピーディに厨房に告げられる。なんとも自動化されていることよ。
お茶、胡椒、等のオプションはテーブルに置いてあり、すべてセルフ サーヴィス。床がデコボコのうえ、お粗末な木の丸椅子では、なんとも座り心地が悪い。しかし、ラーメンは400円で替え玉、替え肉(!)はともに50円という超破格値なんで、店はとりあえずそれなりとも言え、文句のつけようもない。
ちなみに替え玉というシステム発祥の地は、この長浜であるとの有力な説がある。卸売市場の従業員が、おなかの空き具合に応じてリーズナブルに麺の量を微調整でき、また調理スピードが異常に早いことから普及・定着したという。従って、長浜ラーメンの場合、一玉の麺がかなり小さい。替え玉を何回も繰り返すのである。安い・早いこそが最大のメリットであるため、食事環境は全くの不問。長浜ラーメンに立ち食いのパターンが多いのはこのためである。
近所の常連さんだろうか、デブが相席になり、いつものようにいつものラーメンを注文している。入店直後、間髪をいれずカウンターのババアに好みを告げると、その希望は反映されるシステムらしい。時々、意味不明の単語が飛び交っていたが、上手く聞き取れなかった。そうこうするうち、ラーメンが来た。なるほど安いわけである。これでは替え玉も替え肉も50円のはずだと納得させられるなんともお粗末な陣容で、これでは行きつけの『都そば』の方がまだ、マシなんじゃないか? とさえ思った。ま、それはさておき、問題は味なのだ。こころして食べる。
スープのコク、獣臭、麺、チャーシューとそれぞれ、今までに食べなれた長浜ラーメンとなんら変わるところはなかった。スープが極端に濃厚なわけでもなく(ま、それは来店した時間〜午後2時半 にも拠るとは思うのだが)、獣臭がひどくて食欲がなくなるわけでもなく、チャーシューの立派さに虜になるわけでもなく、ただただそこには細麺のいわゆる長浜ラーメンがあるだけだった。この内容で400円は妥当だが、諸費高騰の折、安いという評価を下すべきなのかもしれない。そしてそれがこの店をとりあえず、一番店にしている理由なのかもしれない。
相席のデブはさらに慣れた手つきで、テーブルのやかんから何かをラーメンに入れている。黒い液体なのだが、おそらく替え玉を注文した際、スープを注ぎ足すためのタレかなにかなのだろうと思って、彼に習って自分のラーメンにも入れてみた。やっぱりちょっと獣臭が気になったからだ。何度か入れては食べ、入れては食べしているうちに、スープの色が変わってしまい“しまった!” と思った時はもう遅かった。実のところそれはただの醤油であり、スープはうっすら黒味がかって、最早しょっぱすぎ、どうしようもない代物に成り果てていた…
[4]博多 中洲 屋台 呑龍
キャナル シティでの食事を終えると、夜の屋台を見物に出かけた。ここと日本有数の歓楽街である中洲とはもう目と鼻の先であり、那珂川を渡る春吉橋の周辺はいわゆる屋台ゾーンである。那珂川は、ダイエー ホークス優勝の際、ファンがガンガン飛びこんだ件の川である。
ここには那珂川を挟んで有名屋台とされる『一竜』『呑龍』が出ている。どちらかに行ってみようと思っていたのだが、『一竜』にはかなりの行列が出来ていて時間がかかりそうなので止めた。橋を渡って向かいの『呑龍』に行ってみると、意外にもテーブル席が空いていたので、さっそく陣取る。
まずは屋台の常識、値段の確認である。ラーメン 600円。これは“意外に安いな” と思った。さっそく、ラーメンとビールを注文。屋台だけに調理のスピードは速い。屋台なんて本来、長居するところではないし、屋台の方にしても客単価が低いのだからお客さんの回転率が勝負。たいした注文もせず居座る客など迷惑以外のなにものでもないはずだ。
さっそく、いただく。“とんこつラーメン”のはずなのだが、獣臭は一切なかった。ここで思ったのはいわゆる“とんこつラーメン”として一まとめにされている長浜系と博多系は明らかに違うラーメンだということだ。長浜系があえて獣臭を前面に押し出した野趣に富んだ地方色を強調したものであるのに対し、博多系はあくまでも総合的で都会的になっている。それは良い意味でも悪い意味でも、アクがなくなり、万人受けを狙ってマイナー チェンジを繰り返した結果なのだろう。
気になったのはスープの味が、なんと筆者のフェイヴァリット インスタント“エースコックのワンタンメン”にそっくりだったことだ。もちろん断言はできないのだが、これは化学調味料ではないのか??? 屋台で本格的な焚き出しのスープを期待する方が間違っているのだろうか? それとも屋台はやはり、屋台のオヤジや相席のお客さんと会話を交わしたりする風情を楽しむものと割り切るべきなのだろうか?
最近、いっしょにお寿司を食べた東京の友人が、“このマグロ、ネタはいいんだけど包丁の入れ方が気に入らない” という筆者の想像もしなかった角度からの批評をしたのを聞いて、筆者は自分の味覚にめっきり自信がなくなっている(苦笑)
しかし、それにしてもこのスープの味は浅いというか、薄っぺらいというか… 味の輪郭がくっきりキワ立ち過ぎて、押し付けがましくはないか? まさに整えられた味という感じがするのだ。
複雑な思いでラーメンをすすっていると、屋台にとって天敵のような居座り系オヤジが横の空いていた席に乱入してきて、上機嫌でやたらと話しかけてくる。そこからはラーメンを吟味するどころではなくなってしまい、結局、真偽の程はよく分からず仕舞いで終わってしまった。
そう言えば、昨夜、日テレ系の『どっちの料理ショー』で<札幌ラーメンvs.博多ラーメン>を放送していたが、博多ラーメンが負けたのだった… 『呑龍』のオヤジは“そりゃあ、旨いところが出てないからなぁ〜”なんて話していた。
筆者の第一回(二回目なんてあるのか?)“博多ラーメン 食べ歩き紀行”は、こんな具合で非常に不本意なまま全日程を終了した。本来なら、ここからさらに博多ラーメンの老舗の『一風堂』や『一蘭』にも行くべきだったのだろうが、制約の多い出張のこと。今度は自前で来るしかないだろう。
●実はグルメというものは壮大な共同幻想であって、本来はあくまでも個人的な経験と深く結びついた感想に過ぎないと思う。すべての人々にとって究極のグルメとは、母親が自分のために作ってくれた手料理であり、それを味わった時の幸福な記憶なのだ。
●“時代食堂”という名の古びた食堂を舞台に展開される不思議なドラマは、一億総グルメ評論家時代への確かな警鐘であると共に、見事な見事なほのぼのストーリーでもある。“時代食堂”で出される特別料理とは、その料理を味わう人を自分の大切な思い出の中の懐かしい風景へとトリップさせる究極のレシピだったのだ。