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 まだ梅雨が終わらない。昨日は道ばたに紫陽花を見た。きれいな青色だった。思わず立ち止まり、見とれてしまう程鮮やかな青だった。もちろん紫陽花の色は青にとどまらない。様々に変化する。紫陽花のことを思うと必ず思い出すことがある。
 もう二十年ほども前、ぼくが大学を出て初めて赴任したのは本当に田舎の小さな町だった。そこに二年住んだ。その町は本当に田舎だったが、昔はその地域の中心であったらしい。それは茨城県の江戸崎というところで、地名から分かるように、利根川や霞ヶ浦を通じて江戸と交通があったのだろう。だからその町は陸の孤島のようなところで、田舎だけれどそれ故にこそ却って町として完結しているような趣があった。つまり町の中に一応全ての機能があった。
 例えばそこには皇族の別荘があったという話だった。話だったというのは、本当のところは知らないからだ。確かに駅前通りから坂をあがったあたりに洋館が建っていて、そんな洋館は場違いな雰囲気だったから、そんなことを言っていたのだが、だからといってあながち嘘ではないようだった。そして昔は芸妓さんがいた。なんでこんな田舎町に思ったものだが、これも嘘ではなかった。実際、「よしの」のおばちゃんはそんな芸妓さんの一人だった。
 「よしの」というのは、本通りから入った路地にある飲み屋で、おばちゃんがひとりでやっていた。硝子戸を開けるとカウンターがあって、五人も座ればいっぱいになる。夏は漬け物と焼き鳥と卵豆腐、冬は漬け物とおでん。後はビールと日本酒。それしかなかった。刺身が食べたければ近所の魚屋に買いに走った。おばちゃんはすでに六十を越えていたと思うが、身のこなしに粋な匂いがあって往事はかくやという雰囲気は確かに持っていた。安月給のぼくらは足繁く通い、酒を飲み、若い議論をしていた。
 ある日、まだ明るいうちにぼくが「よしの」に行くと、時間が早かったせいで他には誰もいなかった。自然、よしののおばちゃんと差し向かいで飲む格好になった。外は小雨が降っていた。
 「よく降るねえ、この雨は」
 「たまにはいいですけどねえ、雨も」
などという当たり障りのない会話などしてビールを飲んでいたのだと思う。
 店の外に紫陽花が咲いていた。
 「塚本さん、紫陽花の都々逸知ってる?」
 もちろんそんな粋なものを大学出たてのこちらが知るはずがない。
 「こんなのさ。教えてあげるよ」
 そう言いながら、おばちゃんは歌ってくれた。
 「紫陽花は、浮気な花だよ、七たび変わる、変わり変わりて元の色。ってね」

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