turn back to home「週刊電藝」読者登録










 ぼくが中学1年生のとき弟が死んだ。弟は小学校の3年生だった。
 当時通っていた小学校にはプールがなくて、夏休みに小学生たちはプールに入るためには中学校まで行かなくてはならなかった。中学校までは自転車では20分くらいのものだったが、地区の子供会の役員が小学生をまとめて送り迎えをしていた。農村地帯のことゆえ軽トラックの荷台に子供たちを乗せていた。 その日はちょうどプールの日だった。
 ぼくは家で昼寝をしていた。農家の人も夏の日盛りには仕事をしない。朝早く仕事に出かけ昼は昼寝をしてまた夕方に遅くまで仕事をする。だから父もその時ぼくの隣に寝ていた。電話がなって母が電話に出た。何か叫んでいる。母の叫び声を聞いて父はいきなり駆け出した。ぼくは何が起こったのか分からなかった。
 プールに行っての帰り、弟はトラックを降り反対側に道を渡ろうとして車にはねられた。遅れて駆けつけたぼくに近所のおばさんは「どーんって凄い音がしたんだよお」と興奮して語った。どーんという音は2度したらしい。はねられたときの音と、地面に落ちたときの音だろうというのが驚いて集まった人たちのの意見だった。すでに救急車で弟は病院に運ばれていた。父も救急車に同乗してすでにいなかった。
 それから一週間弟は昏睡状態で、そのまま一度も目を覚ますことなく逝った。

 一週間後の晩に危篤におちいり、ぼくが病院に行ったときはすでに心音が停止した後だった。
 病院の裏口から遺体を運び出し家に運んだ。玄関を開けて家に入ろうとすると蝉が飛び込んできた。弟の遺体を奥座敷に寝かせると蝉もいっしょに入ってきた。そして天井の蜘蛛の巣に引っかかり一晩中蜘蛛に食べられていた。
 次の日から数日、親戚や近所の人の見舞い、通夜、葬儀と家の中は多忙だった。ぼくは別の小さな部屋にこもり眠ってばかりいた。ひたすら眠かった。母はそんなぼくを見て、「この子はこんなときに寝てばかりいて」と悲しげに嘆息したが、眠くて眠くてしかたがなかったのだ。きっとそうすることがそのときのぼくの中では必要だったのだろうと思う。
 ぼくはそれよりも小さいころ、自分が死ぬことを考えてよく恐怖にかられた。弟と自分はどちらが先に死ぬのだろうなどと部屋に寝ころんでガラス窓越しに空を見上げながら考えたものだ。まさか弟の死がそんなにも早く訪れるとは思いもよらなかったから。
 今年も夏が来て去ろうとしている。あれからすでに30年近い

このページの先頭へ