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 自分の子どもが小さいと、彼ら独特の文化を学校から運んでくる。ジャンケンのやり方ひとつにしても、自分の子どもの頃とは異なった言葉が使われていることに驚くことがある。あるいは、二つのもののいずれかをランダムに選ぼうとするときに使われる言葉。「どちらにしようかな」と二つのものを指で交互に指しながら言う言葉にしても、ぼくの娘はこう言う。「どちらにしようかな天の神様の言うとおり、鉄砲打ってばんばんばん、あべべのべ、オモチャ箱」おそらくこういうものは多くのヴァリアント(異型)を持っているのだろうけれど、少なくともぼくの時代は「どちらにしようかな天神様の言うとおり」だったような気がする。しかしそれにしても何でオモチャ箱なのか。その意味不明さが楽しい。
 あるいはこんなものがある。「アルプス一万尺」のメロディで歌ながら、二人で手をたたき合う遊び。「隣のじっちゃんばっちゃん、芋食って屁して、パンツが破れて大騒ぎ、じっちゃんは夜逃げでばっちゃんは自殺、残ったパンツは行方不明」
 いったいこれは何なんだろう。ブラックでナンセンス。実はぼくは大好きである。この何でもありの世界。そして見落としてはならないのはこれは何よりもまず口承文芸の性質を持つということである。子どもたちは独自の文化を持っているが、それは文書化されることなく口承によって変化しつつ受け継がれていく。現代に残る唯一の口承文化だと言えなくもないだろう。
 ところでぼくは自分の子ども時代によく口にしたある言葉をよく覚えている。それは隠れんぼや鬼ごっこで鬼になった者が100まで数えたりするときに使う言葉である。そうした類では、「だるまさんがころんだ」が有名である。「だるまさんがころんだ」は10文字から成る言葉なので、それを口にすることで10まで数えたと見なされる。だから「だるまさんがころんだ、だるまさんがころんだ」と10回言えば、100まで数えたことになるのである。ぼくの娘に、そういうときは近ごろでは何て言うのか聞いたところ分からないという。あまり隠れんぼや鬼ごっこをしなくなったせいだろうか。よく言われるように、その変わりにテレビゲームやアニメがその位置を占めているということなのかもしれない。社会の変化に伴い文化も変化していく。
 ぼくの子どもの頃は、「モウレツ ア太郎」という赤塚不二夫のマンガがアニメになっていてそのキャラクターを使って「ア太郎とデコッパチ」という言い方があった。これも10文字なのだ。しかしそれよりも強烈に今でも覚えているのは「インディアンのふんどし」で、ぼくはこの言い方がとても好きだった。
 鬼になった子を残し他の子たちは隠れる場所を探して散っていく。鬼は一人で大きな木の根元に立ち目をつぶって数える。「インディアンのふんどし インディアンのふんどし…」
 いったい誰がこんなものを考えたのだろうか

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