ゆれる

 8月6日、念願の『ゆれる』をようやく観賞しました。

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 本編の具体的な内容・感想を記す前に、本作が本年度指折りの秀作であったことを、まず明言しておきましょう。観賞前から、本作に対する批評家・観客の絶賛の声は私にも届いており、事前に知り得たストーリーも私好みのものであったため、相当な期待をして観賞に挑んだものですが、幸いなことに、その期待が裏切られることはありませんでした。

【東京で新鋭の写真家として成功し、自らの会社を立ち上げ、成功の途上にある早川猛は、兄:稔からの誘いを受けて、母の一周忌のために久々の帰郷を果たす。稔は現在、父:勇と共にガソリンスタンドを経営している。厳格な父とは折り合いが悪く、温厚な稔は昔から2人の間を取り成しているといった按配。一周忌法要をなんとか終えた翌日、兄弟はガソリンスタンドで働く幼なじみの川端智恵子と3人で近くの渓谷に出かけることに。共に働きながら、密かに智恵子に想いを寄せている稔と、前日の夜に智恵子と一夜を共にした猛、そして、兄弟の間で危うく存在する智恵子。三者三様の思いが交錯するピクニック……そんな中、川に架かる細い吊り橋から智恵子が転落死してしまう。その瞬間、智恵子と行動を共にしていたのは稔ただ1人。智恵子の転落死は、やがて事故か事件かを巡る裁判へと発展するのだが……】

というストーリー。

 監督は『誰も知らない』の是枝裕和監督が製作を手掛けた『蛇イチゴ』(未見)でデビューを果たした西川美和。この長編デビュー作によって日本映画プロフェッショナル大賞新人監督賞を受賞した彼女は、現代女流監督のホープと目されるようになりました。是枝裕和は本作でも企画としてクレジットされています。

 弟の猛にはオダギリジョー、兄の稔には香川照之がそれぞれ扮している他、真木よう子・伊武雅刀・新井浩文・木村祐一・ピエール瀧・田口トモロヲ・蟹江敬三らが共演しています。

 本作は、まさしく【感情の映画】と言えるでしょう。ゆらゆらと不安定に揺れる吊り橋は、全ての登場人物が抱える揺れ動く感情のメタファーとして機能しており、智恵子の転落を巡る供述や憶測は、その吊り橋の如く、明確な一定の事実を導きません。西川美和は、その時々の供述や憶測を全て画面に呈示し、作中の人物及び事象を、そして観客を、終始揺さぶり続けます。

西川美和は、「伝えられる情報の全てが真実ではない」という、いかにも当たり前でありながら、往々にして我々が見失いがちな事実を巧みに利用し、本作そのものを <藪の中> に誘おうとしているかのようです。

 そう、 <藪の中> という言葉で御判りになるように、本作は黒澤明監督の名作:『羅生門』(芥川龍之介:原作)を彷彿とさせる、一事象を巡る様々な回想・憶測・虚実の入り混じった証言の集積による多面的な解釈を喚起させる一種のミステリー劇でもあるのです。

 その「ミステリー」という言葉に付随する娯楽要素が決して前面に出ることはなく、本作はあくまで鬱々とした重苦しい空気を纏ったまま展開されていくのですが、観客の興味を終始惹き付けて離さないのは、紛れもなくその作品に内包されたミステリー部分が孕んだ娯楽要素に他なりません。観客が捜し求める真相をフックとしながら、ぐらぐらとした不安定な世界が呈示されていく中で、観客も同様にぐらぐらと揺さぶられていくのです。

 本作において重要なのは、現代日本において瓦解を見せつつある厳格な家父長を絶対的な頂点とする家族構造であります。本作の主な舞台である猛の実家がある地方には、未だにその絶対家父長制が、幻想として存在しており、兄弟の父:勇はその家父長としての存在性に固執している節があります。その父と折り合いの悪い猛は、実家を離れて東京に向かい、そこで成功を掴んだ人物として描かれているのですが、ここで <地方の現実と都会に対する幻想> が本作に大きく作用してくるのです。

 <都会に対する幻想> というのは、父:勇だけでなく、兄:稔も抱えているはずなのですが、彼らはそれでも <地方の現実> に呪縛されることを余儀なくされており、心のどこかで猛を羨望してもいます。また、勇の兄である弁護士:修も、猛と同様、東京に進出した人物であり、勇は、そんな兄を猛と同様に快く思っていません。しかし、猛や修にとっては、勇や稔が抱いている <都会に対する幻想> は、最早、過去のものであり、彼ら2人は <都会という現実> に大きく侵食されてもいるわけです。ここで、両者の間に溝が生まれる、つまり、<実家に留まる勇気> <実家を飛び出す勇気> の双方が相容れない対立構造を生み出し、激しい心理的葛藤を呼び覚まします。私はここで <勇気> という言葉を用いましたが、彼らはいずれも <逃げた> わけではないのです。それぞれの決断の結果としての現状が存在しているわけですから、ある時期に <自己の人生に対する真摯な選択> を経たものであることは間違いないところ。しかし、本作における2組の兄弟には、それぞれの選択の狭間で揺れ続けています。特に、家父長制度にしがみつかざるを得なかった勇と稔の抱える、喪失感を伴った羨望は計り知れないもので、それぞれがそれぞれの役目を全うするために、互いに自己を殺してその人生を歩んでいるわけです。彼らにとって、郷里を飛び出した修と猛が羨望と憎悪の対象となる部分は、致し方のないものなのかも知れません。

 と、ここで、本作の家父長制について思いを巡らせてみた時、本作には女性の現実的存在性が非常に希薄であるという事実に気付きました。本作において、女性の存在性は決して画として強調はされません。一周忌を迎えた母親や、吊り橋からの転落死を遂げる智恵子が直接的にドラマに関わってくるわけではなく、その女性の存在の排除には、些かの違和感を感じるほどです。通常なら、家父長制度の犠牲になったであろう母親や、地方のしがらみにがんじがらめにされたままその命を散らすことになる智恵子のドラマがもっと盛り込まれて然るべきだとさえ思えるのですが、本作は彼女らの姿を直接的に描く事を徹底して避けているようなのです。では、本作において、女性の存在が不必要なものであり、全く描かれていないのかというと決してそうではなく、彼女らの思いは、作中に登場する別の人物に投影され、間接的に描写されているのです。

 兄の稔が、夜遅くに父や自分の洗濯物を1人で黙々と畳んでいる姿に、地方における因習であるところの家父長制の犠牲となった母の姿が映し出されていることは明白ですし、離婚の後に再婚をした智恵子の母を描くことによって、智恵子の一人暮らしや、地方における彼女の呪縛もしっかりと描かれているのです。そんな彼女らは、本作中で、既に命をなくした者、あるいは命をなくす者として描かれるわけですが、2人の女性の死が、残された登場人物(家族だけでなく、裁判官や検察官・友人・同僚なども)のアイデンティティーを激しく揺さぶっていきます。

 この2人の女性の死が、作品の背後から多大な影響を作品の表面を生きる人物に大きな影響を与えるというところに、西川美和監督の女性らしさを見た気がします。本作の構造は、男性にはなかなか撮り得ないところなのではないかと思うのです。しかし、意外なことに、本作にはしばしば(特に冒頭など)、男性的と思える骨太さを有した演出が見られ、先述したような真に女性的な部分との繋がりには、性差を超越した人間の体温と眼差しを感じたものです。そんな中、父性と母性の間で激しく揺れ動き、次代の家父長としての重責と兄としての自己抑制の果てに、自己を殺して生きてきた稔の感情の暴発を見せ付けられるに及んで、彼の中に澱のごとく溜まっていった果てしないコンプレックスの不幸に愕然としてしまうのです。

 冒頭付近で、私は本作を【感情の映画】と表現しました。複数の人物の感情がぐらぐらと揺れ続け、それらが時に重なり合い、時に乖離していく模様に、心を鷲づかみにされたような不穏な緊張感を感じたものです。その、人間の感情が織り成すグラグラとした不安定な状況を、演出によって表現してみせた西川美和の力量も大いなる注目に値しますが、台詞に頼りきることなくそれぞれの登場人物に命を吹き込んでみせた俳優陣にも感嘆の意を禁じ得ません。1作毎に成長を遂げている感のあるオダギリジョーの現代感覚溢れる演技や、伊武雅刀・蟹江敬三の経験則に上乗せされた凄みには目を見張りました。

 しかし、それ以上に、香川照之の神がかり的な名演は特筆物だと断言してしまいます。以前から、彼の力量を高く評価(彼は名優であると共に、名文家でもあります。その多彩ぶりには思わず嫉妬を感じるほど)してきた私ですが、本作の彼には思わず鳥肌が立つシーンが何箇所もありました。俳優の演技から、これほどの衝撃を受けたのは、1992年度のアメリカ映画:『二十日鼠と人間』におけるジョン・マルコビッチを目にした時以来のことです。ストイックでありながらアグレッシブでもあるという本作の香川照之は、さながら演技という魔物に憑かれているといった体であり、役柄との完全な同化を成し遂げていると言えましょう。香川照之は、インタビューにおいて、「脚本を読んだ時、稔は僕そのものだなと思った」と吐露していますが、実際に本作を観賞し終えた今、その言葉が真実味をもって迫ってきます。彼の奇跡的な熱演を目の当たりにすることだけでも、大いなる収穫でありました。恐らく、本作における香川照之の名演は、本年度の映画賞でも大いに注目されることでしょう。

 ただ、私は本作に対して、<傑作> という評価を下すには些かの抵抗があります。そのため、<秀作> という言葉を用いたのですが、大変惜しいことに、本作には細部におけるリアリティの欠如が散見され、不安定な人間の感情模様に説得力を持たせるための肉付けが若干不足している部分が気になります。また、物語が法廷劇の様相を呈しだして以降、演出と俳優の演技に微妙な乖離が見られ、どこか浮いてしまった感も否めません。

 その部分を、痛烈に惜しいと感じるのですが、それでも尚、本作は上昇傾向にある現代日本映画の充実ぶりを如実に体現した豊穣なる秀作だと、声を大にして表明したい次第です。

 劇場の暗闇から抜け出し、炎天下の中で帰路についたにも関わらず、その道中、私は今見たばかりの本作を再度心の中で映写し始めました。こうしてコラムを書いている今でも、本作を観賞し続けているような錯覚を感じます。
何度も胸中で反芻しながら、余韻を噛み締めつつ、映画を味わう喜びもまた一興と言えましょう。

 また、映画館でお逢いしましょう!!

ゆれる

2006年カンヌ国際映画祭 監督週間正式出品作品
2006/日本/カラー/119分/配給:シネカノン

/アメリカ/126分/配給 : UIP映画
原案・監督・脚本:西川美和 製作:川白和実/重延浩/八木ヶ谷昭次 出演:オダギリジョー 香川照之 伊武雅刀 新井浩文 真木よう子

2006年8月7日号号掲載

< 時をかける少女(2006/8/21) | M:I:III(2006/7/25)>

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