古今漫画夢現-text/マツモト

鬼頭莫宏『ぼくらの』

“セカイ系”とは異なる、
少年少女の日常/非日常をめぐるSF

この社会で、一般の人々にとって他の生殺与奪を左右するような機会は皆無に等しい。それは平和でもあるが、一方で、人間は本当に生や死に向き合う機会を失っているとも言うことができないだろうか。鬼頭莫宏氏による『ぼくらの』は、その奇妙な設定もさることながら作者の独特の表現で、そのきわめて微妙な事実を伝えようとしている作品だ。

臨海学校で集まった15人の少年少女は、偶然出会ったココペリと名乗る男にゲームを持ちかけられる。彼は無敵の巨大ロボットに乗って敵を倒してみないか、と言うのだ。ココペリの提案に乗って契約した彼らだが、その戦いが地球の命運を賭けたもので、しかもロボットの原動力が一人ひとりの操縦者の命だと――つまり操縦者は勝敗に関わらず必ず死ぬ、と後で知らされたのだった。彼らは、宇宙生成から分枝してきた並行宇宙の地球と戦いあい、淘汰するために選ばれたのだ。

本作が、“セカイ系”というジャンルに位置されることをご存じだろうか。“セカイ系”とは、突然「ぼく」の存在が世界そのものの価値とリンクするようなファンタジーのことだ。たいていここでは、「ぼく」=世界という妄想的なつながりの中で主人公が抱える「自分とは何か」という悩みが熱っぽく語られるかたわら、彼/彼女を取り巻く社会への言及、すなわちリアリティがすっぽりと抜け落ちることが多い。確かに、地球存亡のために子供たちが戦うという突飛な設定はセカイ系のそれではあるが、ぼくの感じるところ、どうもいわゆる“セカイ系”とは性質が異なるように思われる。

本作の特徴は、戦いに契約した後も彼らの日常が、突然の非日常的な戦いと並行して続くところだ。彼らは、操縦者としての運命に悩む。死にたくない、殺したくない、家族との別れが辛い……当然の感覚だ。それは主人公たちがあくまで日常に根ざした存在だからだ。だがどんなに悩もうとも敵を殺さねばならないし、自分も死んでしまう。この現実での葛藤を抱えながら、彼らは戦いに身を投じていく。この物語のなかで子供たちは、「ぼく」=世界というより、あくまでこの世界の中の一存在にすぎない。本作は、少年少女の日常/非日常をめぐるSFとした方が適当ではないだろうか。

しかも本作では、“リアリティ”がかなり重視されていることも挙げておきたい。特に主人公たちの心情描写をていねいに行うため、作者は必要以上の演出や脚色を抑えているようだ。そのせいか、本作を通読しても、そこで描かれているのは淡々と描写された操縦者の現実ばかりだ。省略された白い背景、細い線がそれをさらに際立たせている。そこに言いようのないもの悲しさと虚しさまでただよう。

また、鬼頭氏が描くのは、寂しげな無表情を湛えた、人形のような体格の子供たち。彼らは生身の人間よりもソリッドで、互いに侵しようのない領域を持っている。そこには、根底を支えているはずの「何か」がない。しかし、無味無臭という言葉が近いその絵柄から主人公たちの感情が湧き出るとき、それはかえって強く、そして切なく匂い立ってくる。生の輝き、とも言うべきだろうか。少年少女たちの戦いが唯一のものでなくとも、それでも「彼らの物語」は彼らにとっては「彼ら『だけ』の物語」でしかないことを実感もさせてくれよう。『ぼくらの』とはまさに、このことを指すのかもしれない。

2009年8月3日号掲載 このエントリーをはてなブックマーク

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鬼頭莫宏『ぼくらの』(小学館 IKKI COMICS)7巻 p.96 第38話 「往住愛子2」
体格の細さ、悲しげな無表情。もちろんこればかりではないが、この不自然さからは病的な印象さえ感じてしまう。

同5巻p.162 第28話 「阿野万記4」
操縦者の一人、阿野万記はロボットの中から命の輝きを光としてみる。星空を見るようでもあり、感動的な光景だ。
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