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referer/金水 正

グローバリゼーションに対する「ノー」は、エコロジカルな合理性をそなえた対抗プロジェクトの萌芽を確かにもっている。しかしそれはまだたどたどしく、敵の脅威になるほどの政治的力をもっていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Mastercardのキャンペーンクリエイティブのパロディ。コピーは、
「American Frag: 25$
Gasoline: $5
Cigarette Lighter:$2.5

Catching yourself on fire because you are a terrorist asshole: PRICELESS」。

先のアメリカにおける「同時多発テロ」についての、複数の立場の人たちによる表明を、何回かに分けて転載しています。これらのテクストはAMLというメーリング・リスト(富山大学の小倉利丸氏が主宰する社会運動の情報交換のネットワーク)のバックナンバーからとられたものです。興味のある人は、直接サイトに当たられると良いでしょう。
http://www1.jca.apc.org/aml/

戦争抵抗者連名の声明
オルターナティブ・インフォメイション・センター
ヤン・ムーリエ・ブータン
スラヴォイ・ジジェク
エドワード・サイード
中村哲

 

**** 以下引用 ****

AMLのみなさまへ。長くリードオンリーの会員でしたが、はじめて投稿します。市田良彦と申します。フランスで発行されているMultitudesという政治誌の編集委員をしており、日本でもときどき文章を書いています。同誌の編集代表であるヤン・ムーリエ・ブータンが、今回の「同時多発テロ」について次のような短いメッセージを出しました。すでに英訳については、小倉さんからこのAMLでも紹介されています。英訳のテキストと若干異同がありますが、それは英訳された後でヤン・ムーリエ自身が原文に手を加えたためです。フランスでの一つの反応としてお読みください。なおこの文章は印刷媒体にも出る予定です。しかしネット上での転載、引用などは歓迎します。若干の注が必要と思われる箇所もありますが、とりあえず翻訳だけアップします。

「帝国」という概念は、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの同名の書物に由来します。翻訳が進行中と聞きますが、さしあたって『現代思想』2001年7月号を参照ください。「ムルチチュード」(スピノザに由来する「多数性、群集」というような意味の語)についても。
このテキストについてのご意見などありましたら、市田(ucml@cs.cla.kobe-u.ac.jp)までお寄せいただけると幸いに存じます。

私自身の立場や見解については、このテキストが刊行されるときに同時に少し書くつもりです。この投稿は一編集委員としての「代理投稿」だと思ってください。とはいえMultitudesは党派機関誌でも編集委員会がなんらかの統一見解をもつような雑誌でもありません。ネグリの思想をひとつの大きな軸にはしていますが、ネグリに対する評価も編集委員会のなかではかなりばらつきがあります。

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「ジョノバの後に、
アポカリプス・ニューヨーク」

ヤン・ムーリエ・ブータン

 ジェノバ・サミットの後、すでに激しい論争が巻き起こっていた。プラハ、ケベック、そしてイェーテボリー以来、反G8勢力の広範な結集は、国家の側の態度硬化という壁に突き当っている。この壁は、グローバリゼーションに対する拒否の意思表示に軍事的な制約を課そうとするものだ。その結末は我々の知るとおりである。一人の死者である。たとえばカビリーに見られるような、さらにはもっと暴力的なそうした脅迫に対しては、政治闘争の側の「軍事化」――対称的かつ効果において破局的な――しか対抗手段はないのだろうか。これが議論の中身である。ニューヨークのアポカリプスはこのジェノバ・サミットをめぐる論争に、特異なかたちで影を落とすことになった。
 軍事に軍事をもって応えることは馬鹿げている。そしてそれは、シアトルとチアパスにおいて固い意志と知性をまさに結合させることに成功したムルチチュードの構成とは無縁のものである。なぜなら、新自由主義的資本主義の変容を分析しようとして帝国権力の軍事化しか見ないのはあまりに乱暴であるからだ。スーパーパワー対ハイパーテロリズムの戦争を現実的に装った今回の事件について、帝国の力を一身に担うアメリカ合衆国が自分で世界的規模のテロを演出し、生まれつつある運動に対する軍事的抑圧と反テロ名目の管理を正当化しようとしているなどというパラノイア的思いつきを膨らませるのでなければ、そこには別の構造が働いていると考えねばならない。
 しかし、どのような?
 1995年、シアトルにおいて世界的規模の運動が再び形成されたとき、グローバリゼーションに対するグローバルなオールタナティブとしての現実の社会主義が消滅した後に第二、第三世界を順々に吸収しようとしてきた新自由主義のシナリオは、完全に狂ってしまった。

 資本主義のグローバル化に反対する声は、イデオロギー的なオールタナティブを完全に欠いたまま、急速な勢いで広がってきた。そこには身体的なオールタナティブもまた欠けていると私には思える。ここで身体的なとは、「器官なき身体」(器官がないゆえに器官を切除しても打ち倒せない身体)という意味においてだ。
 グローバリゼーションに対する「ノー」は、エコロジカルな合理性をそなえた対抗プロジェクトの萌芽を確かにもっている。しかしそれはまだたどたどしく、敵の脅威になるほどの政治的力をもっていない。
 それゆえに、危険な状況が生まれているのだ。70年代の終わりにイタリアで、さらにヨーロッパ規模でも生起したような状況が。なぜ危険であるのか。運動は、新しい資本主義が変えようとしている変速ギアを破壊する力をもっていても、まだ別の世界性を構成する能力の増大へとギアシフトできていないからである。

 運動はその広がりと、知識資本主義の戦略目標に手ひどい打撃を与える力(なかんずく、エイズ治療薬に関して南の諸国が収めた勝利に見て取れるような、新たな閉域を作ろうとする動きに対する打撃)を増大しつづけている。ところが権力の暴力は磁性体のように運動を引き寄せる。そして、それが壊れてしまうようなところに運動を置こうとする。私がここで磁性体の作用と見なすのは、帝国的権力の概念を、アメリカ帝国主義のスーパーパワーというテーゼの焼き直しに貶めたり、運動のラディカルさと力の尺度を資本主義的グローバル権力への応答能力に切り縮めたりするような事態にほかならない。

 まさにこうした事態を、テロによる状況の重層決定はほとんどシステマティックに推進するのである。運動がムルチチュードの潜勢力を表現し、ヴァーチャルなものが未来の鏡となるたびごとに、それを直接的権力の表現にさせようとする脅迫が生起し、多様な潜勢力の現勢化を闇のなかに押し戻そうとする。

 アポカリプス・ニューヨークは、帝国の力への強大な抵抗力を、破局的(ハリウッド映画をライブで上演するような)かつ、パレスチナ人がタリバンになってしまうという完全に歪んだやり方で現出させてしまった。世界貿易センターとペンタゴン(市場と剣)を嫌悪するグローバリゼーションへの反発は、破壊の実行に移るよう背中を押されている。

 最悪の破局はまず、国家的−帝国的規模に押し上げられたテロリズムが「軍事的」抑圧を招き、異議申し立ての運動を反テロのコンセンサスに屈服させるか(悔い改め、離脱し、裏切る)、絶対的で悪魔的な反逆へと向かわせるかして押しつぶすという結末である。つまり具体的には、フェリクス・ガタリが「冬の時代」と呼んだ80年代をすぎて運動がようやく取り戻しはじめていた自由の空間を、衰退ないし収縮させることである。
 しかしそれだけではない。最悪の破局はなによりも、もはやジェノバのときのように警察だけが挑発行為の源とはいえなくなってしまうような猪突猛進、罠にはまった反抗である。
 アポカリプス・ニューヨークは明らかに、こうした方向に「ジェノバ」を押しやるだろう。それは北と南を問わず存在する過激な「ブラック・ブロック」たちへの呼びかけである。グローバル化する資本主義の象徴的拠点とその兵士たち、世界の憲兵隊と物理的に縁を切ろうという試みに直面しては、トービン税とて何の意味があろう。
いずれにしても、そこにある対比そのものが間違っている。世界貿易センターとペンタゴンは象徴以上のものでありながら、なおかつ、世界資本主義の現実的指令本部などではないからだ。この資本主義は部門や分隊というものをもたず、まったくもって抽象的、掴まえがたき存在にほかならない。

 警察やイタリア国家の挑発行為を児戯に等しいものにしてしまう真の挑発とは、ニューヨークをジェノバに結びつけるこうした重層的回路そのものである。それは、反グローバリゼーション運動のクローンを作り、ムルチチュード、「民衆」を変質させようとする、はるかに恐るべきヴィールスだ。だからこそ我々はすぐに、カブール爆撃に反対するデモを繰り広げねばならない。

 こうした根本的に新しい情勢において、我々は挑発と陰謀をめぐる古い決り文句を繰り返していてはならない。半分漫画じみて半分リアルな舞台装置(そこにはスターウォーズとローマ帝国と本当の死者たちを過剰に生み出す、特殊効果まで施されている)のなかで、ムルチチュードたちはどのような政治を行うのか。これこそが問いだ。

    
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