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referer/金水 正

 

クラスター爆弾は弾薬のコンテナであり、空中で割れて小さな子爆弾を放出するものである。これらの子爆弾は着弾の直後、あるいはその寸前に爆発するように設計されている。クラスター爆弾は、航空機から落とされたり、ロケットで運ばれたり、砲弾のように飛ばされるなどして用いられる。
【キャプション=地雷廃絶日本キャンペーンのウエブサイトより】

先のアメリカにおける「同時多発テロ」についての、複数の立場の人たちによる表明を、何回かに分けて転載しています。これらのテクストはAMLというメーリング・リスト(富山大学の小倉利丸氏が主宰する社会運動の情報交換のネットワーク)のバックナンバーからとられたものです。興味のある人は、直接サイトに当たられると良いでしょう。
http://w.jca.apc.org/aml/ww1

戦争抵抗者連名の声明
オルターナティブ・インフォメイション・センター
ヤン・ムーリエ・ブータン
スラヴォイ・ジジェク
エドワード・サイード
中村哲

 

********* 以下引用 ********
やまだよしのり@一市民です。

みなさん、いつも貴重な情報ありがとうございます。

小倉さんが紹介下さったジジェクのコメントの日本語訳が出てないようなので、ご参考になるかと思い、とりあえず拙訳を送ります。
ささやかなお返しのつもりです。
まちがいもいろいろあるでしょうが、旬のものですし、もっとよい訳が出るまでのつなぎ、ということでよろしくお願いします。

原文は
http://www.nettime.org/nettime.w3archive/200109/msg00146.html
にありますので、分かりにくいときは参照してください。

なお、原文は商業目的以外には転載自由のようですから、拙訳もそれに準じるということでいいと思います。

#"Infinite Justice"(無限の正義)って何とも怖ろしい名前ですね・・・。
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現実の砂漠へようこそ!
スラヴォイ・ジジェク

アメリカの究極のパラノイア的幻想は、消費者優先主義者の楽園としての小さな牧歌的なカリフォルニアの街に住む個人が、突然次のように疑いはじめる、というものである。すなわち自分が住んでいる世界が偽物で、彼を現実の世界に生きていると思いこませるために上演されている見世物であり、そこではまわりの人々が壮大なショーの俳優やエキストラとしてうまく立ち振る舞っているのではないか、と疑いはじめるのだ。
この幻想の最近の例はピーター・ウィアーの『トゥルーマン・ショー』(1998)である。そこではジム・キャリー演ずる小さな街の事務員が次第に自分が24時間連続のテレビショーの主役であることに気づいていく。彼の街は壮大なスタジオセットに築かれカメラは彼をずっと追いかけている。それに先立つ作品のうちフィリップ・ディックの『時は乱れて』(1959)は触れるに値する。50年代後半の牧歌的なカリフォルニアの市街で慎ましい日常生活を送っている主人公は次第に街全体が彼を満足させるために上演されている偽物であることを見いだしていく・・・。


『時は乱れて』ペーパーバック表紙



philipkdick.comより
『時は乱れて』と『トゥルーマン・ショー』は、後期資本主義の消費者優先主義者のカリフォルニアの楽園が、そのまさに超―現実において、ある意味非現実的であり、非実体的で、物質の慣性を奪われている、という経験に基づいている。

だから、ハリウッドが物質的なものの重さや慣性を奪われた実生活の似姿を上演しているというだけではない。後期資本主義の消費者中心主義者の社会において、「現実の社会生活」それ自体がある意味上演された偽物の特徴を持つようになり、隣人たちが舞台俳優やエキストラとして「現実の」生活で振る舞っている・・・さらに、資本主義の功利主義的な脱霊魂化された世界の究極の真実は「現実の生活」それ自体の脱物質化であり、その見世物への反転なのである。そんな中で、
クリストファー・イシャウッドはこのアメリカの日常生活の非現実性をモーテルの部屋を例に言い表している。
「アメリカのモーテルは非現実的だ!/・・・/それはわざと非現実的に設計されている。/・・・/ヨーロッパ人は我々を広告の内部で生きており、瞑想のために洞穴に入っていく隠者のようだと言って嫌う。」ペーター・スローターダイクの「球体」概念が、市全体を包み隔離する壮大な金属製の球体として、ここでは文字通り現実化している。昔、『未来惑星ザルドス』『2300年未来への旅』のような一連のSF映画がこの幻想をコミュニティ自体に拡大して今日のポストモダン的窮状を予言していた。そこでは隔離された地域で無菌的生活を送る孤立したグループが物質的腐敗にみちた現実生活の経験を懐かしむ。

ウォシャウスキー兄弟のヒット作『マトリックス』(1999)はこの論理を最高点にもたらした。我々すべてが経験しまわりに見る物質的現実は仮想現実で、我々すべてがつながっている途方もない巨大コンピュータによって生成され調整されたものであり、(キアヌ・リーブス演ずる)主人公が「現実の(本物の)現実性」の中へ目覚めたとき、彼が見るのは焼けた廃墟の点在する荒廃した光景である。それは世界戦争後のシカゴの残骸である。レジスタンスのリーダーであるモーフィアスは皮肉をこめたあいさつを述べる。「現実の(現実という)砂漠へようこそ。」
それは9月11日にニューヨークで生じたのと類似した秩序に属する何かではなかったか。ニューヨーク市民は「現実の砂漠」と顔を合わせた、すなわちハリウッドに毒された我々は、倒壊したツインタワーの光景や映像を見ることで、破局を描いた大作のもっとも息詰まる場面を思い出さざるを得ないのだ。

攻撃がまったく予想外のショックであるとか、想像外の「不可能なこと」が起こったという言葉を聞くとき、破局の範例となった二十世紀初頭の別の出来事を思い出すべきである。タイタニックである。それはやはりショックであったが、その出来事の場所はすでにイデオロギー的な幻想化において準備されていたのだ。
というのは、タイタニックは十九世紀の工業文明の力の象徴であったからだ。同じことが今回の攻撃にも成り立たないか。メディアが始終テロリストの脅威についての話を我々に浴びせ続けた、というだけではない。この脅威は明らかにリビドー的に備給されていたのだ。『ニューヨーク1997』から『インディペンデンス・デイ』に至る一連の映画を思い出しさえすればよい。このように、起こってしまった考えられないことは幻想の対象なのだ。すなわちある意味で、アメリカは幻想として思い描いていたことを手にしたのであり、それは最高の驚きだったのである。
破局の生(なま)の現実に対処している今こそ、その知覚を定めているイデオロギー的幻想的な座標を銘記しなければならない。WTCのタワーの倒壊に何らかの象徴があるとすれば、「金融資本主義の中枢」という時代遅れの観念というよりむしろ、WTCの二つのタワーは仮想的な資本主義の中枢、物質的生産物の領域から切り離された金融投機の中枢を表しているという観念である。今回の攻撃の破壊的な衝撃は、今日デジタル化された第一世界を第三世界の「現実の砂漠」から分けている境界線を背景としてのみ説明できるのだ。我々が孤立した人工的な世界に生きているという意識こそが不気味な何者かが全破壊を企て我々を常に脅かしているという観念を生むのだ。

従って、今回の攻撃の背後にいる黒幕と疑われるオサマ・ビン・ラディンは、ジェイムズ・ボンド映画の多くで世界的な破壊活動に関与する悪の首領、エルンスト・スタブロ・ブロフェルドの現実世界での対応物ではないのだ。ここで想起すべきなのは、ハリウッド映画で唯一我々が最強度の生産過程を目にするのは、ジェイムズ・ボンドが首領の秘密の地所に侵入し、重労働(薬物を精製し梱包し、ニューヨークを破壊するロケットを組み立てる・・・)が行われている現場を突き止めるときである、ということだ。
首領は、ボンドを捕らえてから、いつも彼の非合法の工場巡りに連れて行くのだが、それは社会主義リアリズムが誇らしげに工場での生産を提示することにハリウッドがもっとも近づいた瞬間なのか。そして、ボンドの介入の働きはもちろん生産現場を爆破し、我々が「消滅しつつある労働者階級」を持つ世界に生きているという日常的な外観に戻ることなのである。WTCの爆破という出来事で、この脅威を与える外部に向けられた暴力が我々に対して向け変えられたということなのか?アメリカ人が生きる安全な球体は、無慈悲に自己犠牲的であると同時に臆病者であり、ずるがしこく同時に原始的な野蛮人であるテロリスト攻撃者たちの外部によって脅かされたものとして経験されている。こうした純粋に邪悪な外部と遭遇するたびに、我々は勇気を振り絞って次のヘーゲル的な教訓を支持すべきである。この純粋な外部において、我々は自身の本質の精製されたヴァージョンを認めるべきである、ということを。この五世紀の間、「文明化された」西洋の(相対的)繁栄と平和は「野蛮な」外部への無慈悲な暴力と破壊の輸出によってもたらされたのだ。それはアメリカの征服からコンゴの虐殺までの長い物語だ。残酷で冷淡に見えるとしても、我々はまた、今こそ、今回の攻撃の実際の効果は現実的というより象徴的なものであることを銘記すべきである。サラエボからグロズヌイ、ルワンダとコンゴからシエラレオネまで、世界中で日常的に起こっていることを合衆国は味わったに過ぎない。ニューヨークの状況に狙撃手と集団レイプを付け加えると、10年前のサラエボが何であったかが分かる。

http://www.ultimatereality.tv/
テレビ画面でWTCの二つのタワーが倒壊するのを見たときに「リアリティ・TVショー」の欺瞞を身をもって知ることができたのだ。たとえこのショーが「本気」であっても、そこで人は演技をしている、単に自分自身を演じているのだ。標準的な小説の断り書き(「この本の登場人物は架空の人物であり、実在の人物との類似はすべてまったくの偶然である」)は現実の三文芝居の参加者にもあてはまる。つまり、そこで見るものはたとえ自分自身を本気で演じていても架空の人物なのである。もちろん「現実への帰還」はまた別様に曲解されている。すなわち、ジョージ・ウィルのような右派のコメンテーターもアメリカの「歴史からの休日」の終わりを直ちに宣言した。現実の衝撃はリベラルで寛容な態度とカルチュラルスタディーズのテクスト性への照準を粉々にしたのだ。今や、我々は反撃を強いられ、現実の世界の現実の敵に取り組むことを強いられている・・・しかし誰を攻撃すべきなのか?答えが何であれ、正しいターゲットに当たり、我々がすっかり満足するということは決してないだろう。アメリカがアフガニスタンを攻撃することのバカバカしさは目を惹かざるを得ない。世界最大のパワーが、農民が不毛の土地でかろうじて生き延びているというもっとも貧しい国の一つを破壊することになれば、これは無力な行動化の究極の事例とならないだろうか。
ここで実証された「文明の衝突」の概念に部分的真実はある。平均的アメリカ人の「この人たちはどうして自分の命をこんなに軽んじるのだろう。」という驚きがそれを証言している。この驚きの裏返しなのが、人が自分の命を犠牲にする公的な、あるいは普遍的な理由は、それを想像することすら第一世界の国々の我々には難しくなっていくという、どちらかと言えば悲しい事実ではないだろうか。
攻撃の後で、タリバンの外相でさえ自分はアメリカの子どもたちの「痛みを感じる」ことができる、と言ったとき、彼はそれによってこのビル・クリントンのトレードマークであるフレーズのヘゲモニー的でイデオロギー的な役割も承認したのではないか。さらに、安全な港としてのアメリカという観念もまた幻想である。
すなわちニューヨーク市民が攻撃の後、もはや市街路を安全に歩けなくなったことを語るとき、それが皮肉なのは攻撃の前にはニューヨークの街は襲われたり少なくとも金を取られたりという危険でよく知られており、いずれにせよ、攻撃が団結ということの新しい意味を生み、そこでは若いアフリカ系アメリカ人が年輩のユダヤ人紳士が横断するのを手助けするという場面が見られた。それは数日前には想像できなかった場面である。

さて、攻撃直後の日々は、我々がトラウマ的な出来事とその象徴的な衝撃の間の独特の時間に住んでいるかのようだった。それはあたかも深い傷を負いそしてまだ痛みが広がっていない短い瞬間のようだ。出来事がどのように象徴化されるか、その出来事の象徴的有効性はどうか、その出来事がどのような行為の正当化を呼び起こすか、それらはまだ未決である。さらに、この極限の緊張の瞬間においてこの結びつきは自動的ではなく偶然である。すでに最初の悪い予兆がある。攻撃の翌日、私は、私のレーニンについての少し長い文章が近く掲載されることになっている雑誌から掲載を延期するという連絡を受け取った。雑誌の方では攻撃の直後にレーニンについての文章を掲載することは不適切だと考えた訳だ。これは来るべき不吉なイデオロギー的再分節化を指し示していないだろうか。


この出来事がどのような帰結を経済、イデオロギー、政治、戦争にもたらすのかはまだ分からないが、ひとつのことは確かである。すなわち、合衆国は今まで、自身をこの種の暴力から免れた島のように見なし、この種の事柄をTV画面の安全な距離から目撃していたが、今やそれに直接巻き込まれている、ということである。従って選択肢はこうだ。アメリカはその「球体」の守りをさらに固めるか、それともあえてそこから踏み出すか、いずれを決意するだろうか。あるいはアメリカは「一体何故これが我々に起こるのか。こんなことはここでは起こらないのだ!」という態度を固執し、強めさえし、外部を脅かす攻撃力を増していくか、一言で言うとパラノイア的な行動化に進むのか。あるいはアメリカはついに外部世界から隔てられた幻想のスクリーンを通ってあえて踏み出し、現実世界に到達することを受け入れ、とうに期限を過ぎた「こんなことはここで起こってはならない」から「こんなことはどこでも起こってはならない」へと移行を行うのか。
アメリカの「歴史からの休日」は偽物であった。つまりアメリカの平和はどこか別のところで起こっている破局によってもたらされた。ここに攻撃の真の教訓がある。ここで再び起こらないことを確かにする唯一の方法は、それが他のどこであれ起こることを防ぐことである、ということだ。

    
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