2008/05/03

 初めて行ったのは、'99年だったと思う。当時ですら、和歌山ラーメンのブーム('98年7月に起こった和歌山毒物カレー事件の取材に来た関東の記者を驚かせたところに端を発する)は一段落しており、まして筆者は、紀三井寺の“マルミヤ”(いわゆる車庫前系)がご贔屓だったので、“井出商店”にそれほどの思い入れはなかった。

 店が傾いているのではないか と思われるほど床がデコボコで、机もイスも急ごしらえといったニュアンスしかない“井出商店”は、店舗の清潔感、食事の雰囲気も含めて総合的な評価をモットーとする筆者にとっては、入店した時点ですでに大きくマイナス評価だった。そして、特に旨くも不味くもないラーメンが出てきて、普通に食べて、普通に金を払って、店を後にした。当時は16時から深夜までの営業で、入店時間が早過ぎたのが不本意な結果を招いたのだと思ったし、そう信じたかったというのもある。というのもラーメン屋のスープについては、開店直後と閉店直前の味が全く違うということが普通に起こるからだ。

 そして今回、実に10年ぶりの再訪となったが、その間に“井出商店”の名前は横浜ラーメン博物館('98年10月1日〜'99年5月末の期間限定店に出店)でさらに全国区となり、このお粗末な掘っ建て小屋は物好きな自称グルメでますます賑わうことになった。

 現在は朝11時から深夜までの営業となっているが、それでも店の前の行列が途絶えることはない。筆者にはラーメンは並んで食べるほどの料理ではないという持論があり、通常は並ぶくらいなら入らない。しかし、今回は“井出商店”を看取るつもりで並ぶことにしたのだ。

 まず、店が大きな交差点の角にあるという地の利は同時に、車を停めるところがないことを意味している。それがまず不便だが、このロケーションにこだわることこそが、井出ヒットの秘訣の様な気がする。

 近くの有料駐車場に停めて、車から外に出るとさっそくラーメン屋特有のケモノ臭が。ラーメン好きにとって、この匂いは評価の分かれるところであるが、筆者自身は年齢的なこともあり、もはや苦痛でしかなくなっている。従って、このケモノ臭がウリの九州系とんこつラーメンなどは筆者にとって壊滅的な印象しかない。例えば、筆者のマンションのすぐ近くに、即席カップ麺にまでなった“博多とんこつ天神旗”があるが、味がくど過ぎて、いつ食べても例外なく気持ちが悪くなってしまう。

 22時頃に行ったこともあり比較的行列は短く、我々は3組目だった。“井出商店”はここのところ、ネットでも何でも、まともな噂を聞いたことがない。客の残したスープをそのまま寸胴に戻している! という船場吉兆も顔負けの風評や、実際に営業停止を一か月くらった との保健所関係者を名乗る人物からのコメント等々… ま、いずれにしても、自分で確認して評価するという現場主義こそが筆者のスタンスなので、何はともあれ、じっと待つ。15分後、入店。

 驚くべきことに10年前に入った時とその印象は全く変わっていなかった。本当にここが日本一といわれるラーメン屋の店内なのか? 今思えば中華そば(最安値の600円)で十分だったのだが、浅墓なことにチャーシュー麺(700円)を頼んでしまった。やってきたそれは、まず、700円のラーメンにしては麺もチャーシューもかなり控えめな量で、替え玉前提の長浜ラーメンの如き風情であり、その意味では400円が妥当だと思われた。

 一口すする。いきなり湯切りが甘い。そのため麺の周りのスープが緩んでいる。それはまた、ラーメンが冷めるスピードを倍化することにもなる。人件費削減のため、調理をアルバイトにやらせているからだろうか… おそらく、麺も製麺所から取り寄せているもので、自家製ではないと思う。多分に粉っぽく感じた。ただし、スープはなかなか良い。このスープだけは緩んでさえいなければ、流石と唸らされるものだ。先程のケモノ臭も感じなかった。

 我々は実に寡黙に、淡々と作業をこなすようにラーメンをすすり、15分後に店を出た。帰り道では残念ながら評価的なコメントが何一つ出なかった。筆者は、スープはまぁまぁだけれども、世間が期待しているであろう井出ブランドには到底及ばない内容だと思った。結局、当初の印象通り、400円だったら妥当だと思った。

 時ならぬ和歌山ラーメンブームは、御当地ラーメンに目を付けたテレビ局の仕掛けであり、たまたま選ばれたのが、井出系の総本山である“井出商店”であったに過ぎない。この辺りの流れは多分に政治的、戦略的なものを感じさせる。結局、特に傑出した存在ではなかったにもかかわらず、“井出商店”の評価は高まる一方で、地元の他のラーメン屋の妬みの的となったのだ。実際、地元の人間にも“井出商店”を良く言う人は少なく、アウェイの印象すら受ける。

“井出商店”は、少年時代を和歌山で過ごした筆者の後輩によれば、全く普通のラーメン屋で学校帰りに毎日寄っていたところだったそうだ。もしかしたら、その頃の“井出商店”のラーメンは、誰も気がつかないだけで、想像を絶する妙味だったのかもしれない。

 宿に戻って、仲居のおねーさんと話すと我々の感想を裏付けるようなコメントが取れた。

“あ〜 井出、行かれたんですか…地元の人間は、井出には行きませんね〜 先に訊いてといてくれたら、もっと美味しいところを紹介しましたのに…”

井出商店を看取る

2008年5月19日号掲載
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[シリーズ★名店に旨いものなし]
そのイチ京都銀閣寺 ラーメンますたに/京都一乗寺 カレーガラムマサラ
そのニ博多長浜 元祖長浜屋/博多中洲 屋台呑龍 

“井出商店”を看取る

[猟ぐる日記]
名店に旨いものなし その三
“井出商店”を看取る

w r i t e r  p r o f i l e



井出商店を看取る
井出商店を看取る
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●ラーメンくらい人それぞれに嗜好やこだわりの分かれるものもないだろう。最終的には、飽きが来なくて、ずっと長い間コンスタントに付き合えるものが、一つでも見つかればOKだと思っている。結局、自分の中に納得があればそれでいい。

●筆者の狭小な経験からいくつかのラーメンを紹介しよう。世に名店は多いけれど、やっぱりここは個人的な好みで選んだ。順不同。

1. 東京 新宿“坂内”
2. 東京 新宿“満来”
3. 大阪 梅田“揚子江”
4. 大阪 淡路“炒麺処可門”
5. 大阪 瑞光“大鶴製麺処”
6. 大阪 正雀“とっかり”

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