「あたしが、刺すって云ってしまったことを気に病んでいるなら、」

「ちがう。僕はからっぽになったら死ぬんだ。僕は、絵画きぢゃない。オモイデ製造装置なんだ。だから、毀れたらそれでお終いさ。」

 スーは返事をしなかった。黙って荷物を置いていった。荷物は、一日ぶんの食糧だった。これでコフィがいれば、完璧な朝なのに。カイエはもう二度と完璧な朝を迎えることができない。

 カイエは、長くなった髪を首の後ろで束髪にした。すると、自分の署名すべき名前がわかった。KはカフィのKだ。カイエのKぢゃない。

 カイエはその日、時代遅れの、コップのなかの水の花を画いた。『水中花。飽いて棄てたは、去年の夏か。帰らぬ夏の、最期の残照。』

 カイエは、スーが運んで呉れた、イワシのエスカベッシュを棄てて、またホットケーキを食べた。それから、ビー玉の惑星を覗いた。水色のビー玉だ。ブラッドリー谷から、ルークニ湾、腐敗の沼を見物する。二十一個の惑星の名所は、もうすっかり頭に入っていた。

 ふと、自分が死んだあとのことを考えて、ビー玉ひと粒ずつが収まるジュエリーボックスを買った。そして、順番にビー玉の内面の情景と、名所の名を画きはじめた。

 それは、一大事業だった。なにせ、コフィが呉れたビー玉は、どれも中身が複雑なのだ。翌日は、仕事を休んで、ミュルとの戦闘ののち、ビー玉の名所地図を画き続けた。

 スーは缶詰を置いていった。

 カイエはそれをミュル化する前に、ダストシュートに放り込んで、ビー玉名所図に集中した。一日に一個ぶんしか画けない。下手をすると、二日かかる。だが、これは完成させなければならない仕事だった。あとで誰かが散歩するとき、必ず地図がいる。おそらく、スーが最初の持ち主になるだろう。


 外側から見れば同じ色でも、中身はまるでちがう。憎しみの湖と悲しみの湖のあいだに、幸福の湖がある。湿りの海に、雲の海、ケルヴィン岬。コビトが住んでいないのが信じられないくらいに、ビー玉の内側は美しい。

「きっと、美しすぎるから、誰も住めないんだ。」

「馬鹿だな。ガラスの内側だから住めないんだ。」

 ブラウンが云った。

「メェ。それはちがう。カイエの眼に見えないだけだ。」

「ぢゃ、なにか住んでいるの。」

「メェ。なにもいなければ、どうしてそんなに美しい風景が必要だとおもう?」

「そうだよね。だけど、それぢゃ、僕が勝手に名前をつけちゃ、失礼かな。」

「いいさ。もしなかになにかがいても、外のことは気にかけないさ。」

「ブラウンは乱暴だなあ。」

「僕という人格があったおかげで、施設ではいじめられずに済んだんだぞ。」

2009年5月6日号掲載

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