資本主義について

怖い顔

多すぎる

ロックなんて誰も聴いていない

魂の本屋

あんまり長いこと書いてないので「パンクリティック」の綴りを忘れたわい。
インターネットは情報量が多すぎるので、かえって無意味な情報の集積になってしまう。大澤真幸が「責任論」でいってるのも同じ。自己決定といったって、選択肢が膨大になってしまうので、かえって決定が無意味になり無責任に陥ってしまう。そして週刊電藝は文字数が多すぎて誰も読まなくなる。問題は多すぎるってこと。安宅久彦は「内声の政治学」で複数性と主体といったことを問題にしているようだが、問題はむしろ「多数性」にあるのではないか。
抱えている仕事が多すぎて、どこから手をつけていいのか分からない。締め切りを過ぎた仕事の原稿が膨大にあるのに、ふてくされてこんな原稿を書いているのだ。昔から、夏休みの宿題ができなかったなあ。明日出す宿題を今日やる。これはできる。
でも、夏休みの宿題は、別に今日やらなくてもよい。1日1ページやることに決めてるけど、今日はやらなくても明日2ページやればいい。今日はやめよう。そして明日になっても、今日やりはじめなきゃいけない理由はない。仮に毎日2ページやることにすれば、十日間ぐらいは何もしなくていいぞ。そして夏休みの終わり、真っ白なままの宿題ノートを前に涙にくれているバカな俺がいる。ああ、俺って一生同じことやるのかなあ。
ローレンス・ブロックに『八百万の死にざま』という小説がある。八百万というのは、たしか1年間にアメリカ全土で起こる殺人事件の被害者数だ。主人公の私立探偵は、一度だけ会ったことのある娼婦が殺された事件の解決に疑問をもち、依頼者もいないのに捜査にのりだす。困難な捜査のなかで、主人公は自分がやっていることの根拠を見出せないことに苦しむ。八百万のうちのたかが一人、つまらない娼婦が殺されたというだけのことに、自分はなんでこんなにこだわって苦労しているんだろう。
もうひとつ悩みがある。主人公はアル中で、これ以上飲むと命は保証しないと医者に宣告されたばかりだ。教会で催されているAAの集会に毎日顔を出し、禁酒を続けている。しかしここにも同じ問題がある。これまでに飲んできた膨大な量の酒があり、そしてこれからの人生にも膨大な時と、酒に触れるチャンスがある。たとえ目の前にある一杯のグラスを飲み干したところで、それですぐ死ぬわけではない。酒は禁物だ。それはよくわかっている。でも、「いま、ここで」それを我慢する根拠は何もない。そして…主人公は再び自己破壊的な爆発的飲酒を経験する。
でもって、この小説のラストシーンはとっても感動的なんだけど、まだ読んでない人のために伏せとこう。(護法)

護 法 p r o f i l e