資本主義について

怖い顔

多す

ロックなんて誰も聴いていない

魂の本屋

塚本敏雄の『詩のペデストリアン』が連載40回を超えた。今年の「週刊読書人」の新年号で高橋源一郎と加藤典洋が対談していて、文学や思想を巡ってかつてあった「知の公共空間」が最近は失われてしまったというようなことを爺むさく嘆いていた。例えば昔なら吉本−花田論争がどーしたとか谷川雁と森崎和江がこーしたとか言えば共通の了解が成り立ったのが、若い連中との間でそれが できなくなってしまったと。塚本の試みは、現代詩を巡るそうした公共空間を復活ないし再創造しようという企てなのだろう。これは、すべての教養や知性がパンクした地点から批評を立ち上げようというパンクリティックの立場から言えば唾棄すべき反動的な営みということになるが、とりあえずその強度と持続力に敬意を表しておこう。ところで、先の高橋・加藤対談でこんな発言があった。かつて東京には、吉祥寺のウニタ書房だとか早稲田の文献堂みたいに知の公共空間をカタチにしたような本屋があったのに、それがなくなってしまったと。ところが、京都にはまだそんな本屋があるのだ。寺町二条にある「三月書房」がそれである。朝日新聞の関西版に載った記事から紹介すると「約三十平方メートルほどの店内には、売れ筋の新刊書はほとんどない。天井近くまで古めの硬い本がぎっしり並ぶ。古書店のような雰囲気だが、れっきとした新刊書店だ。/週刊誌、小説、コンピュータ関連書のような、街の書店には当然ある種類の本はほとんどない。代わりに人文書や現代短歌の本が並ぶ。新潮文庫や角川文庫の代わりにそろえているのは、岩波文庫や講談社学術文庫。漫画も青林堂など個性の強い本が並ぶ。/一九九九年の一年間にもっとも売れたのは『私の「戦争論」』(吉本隆明・田近伸和)。以下七位まで吉本氏の本が占める。…「いけそうな本」を軸に、その周辺の本をそろえるのが、宍戸さん(店長)のスタイルだ。解剖学者の故三木成夫氏の著作に力を入れているが、これは吉本氏が三木氏に言及したのがきっかけ。さらに三木氏からゲーテ、シュタイナーと、ジャンルを越えて思いもよらぬ方向に広がっている。「読者が次にどう読み進むかを考えるんです」。そして本の配置が知識のネットワークを表現する。「数百万部のベストセラーでも、広がりがあるとは限らない。売れない本でも、ネットワークの中心になる本がいい本」と宍戸さんは話す。/現在、ネットワークの中心のひとつになっているのは、大杉栄や伊藤野枝、辻潤といった人々が集まったカフェを描いた『南天堂』(寺島珠雄)。この本を中心に、大杉らの本を一緒に並べている」といった調子。さらに、いつも店番をしているのは店長の両親らしい80歳ぐらいの爺さん婆さんなのだが、この二人がとてもいい。爺さんは稲垣足穂みたいな顔をして、白のダボシャツでいつもパイプをくゆらしている。婆さんは、これぞ本当の関西の教養人の喋りといった感じの、テンポが速く小気味よい京都弁を話し、どんな変わった本について質問しても的確にレファレンスしてくれる。魂で生きるすべての電藝読者は、もし京都に行くようなことがあれば、観光地巡りなど中止してとりあえずまっしぐらにこの店を目指すべきである。もちろん、余裕のあるカネと大きめのカバンをもっていくことをお勧めする。(護法)

護 法 p r o f i l e