資本主義について

怖い顔

多すぎる

ロックなんて誰も聴いていない

魂の本屋

ロックンロールとは何か? という問いかけからはじまる大澤真幸の「エルヴィスが母にロックを捧げた意味」(『不気味なものの政治学』所収)は、社会 現象としてのロックが資本制の必然の音楽的な表現だったことを例によってクソ真面目に論証して読むに値するが、社会的な神話をモチーフにロックの位相 を読み解くという方法に規定されて、ロックという音楽のもつ特有の物質性を取り逃がしてしまっている。ロックとは、直接の物質性としてはアンプリファイアという装置によって極大まで増幅された音量によって支えられていること に本質をもつ。(ちなみにパンクとは、その音量が装置の限界を超えて増幅されたためにパンクした状態の音楽である。)ロックの「大きすぎる」音量は、それ自体が政治性を帯びており、それが鳴り響くところには周囲の環境との間にある種の政治的葛藤の空間を開かずにおれないのであった。ここでいう政治的葛藤とは、日本社会では主として「おら、タケシ。もっと音小そうして聴かんかね!」と叱る親とバカ息子との闘争というせせこましい形で具体化されたのだが。ロックがまだ珍しかった1970年前後は、近所の道を歩いていると、生垣をめぐらせた路傍の上品な日本家屋から、まわりののどかな風景とミスマッチをかもしつつ、ユーライア・ヒープの「ルッキング・フォー・ユアセルフ」(「対自核」という笑える日本題がついていた)などがけたたましく響きだし、おお、ここのうちの倅もロックを聴いているのか! とひそかな連帯感をいだくことができたりしたものだ。だから今日、ロックに関する社会学を開始するなら、ロックの普及は、家庭内に音響装置を備えるような独立したリッチな子供部屋を発達させてきた、現代の先進国の住居の特有の空間性と無関係には考えられないはずである。また、ロックの電気楽器の大きすぎる音量は、しばしばボーカリストの声を寸断し、歌詞によって表されるメッセージを無意味なものと化してしまう。さらに、ロックの音量は、聴衆に狂騒的な叫びその他の過剰な身体的反応を強いてしまう傾向がある。ビートルズは、その人気の絶頂期においてコンサート活動を断念し、後半期の活動をレコード録音だけに限ってしまった当時としては特異なバンドなのだが、ポール・マッカートニーはその理由を、ジェット・スクリームと呼ばれたファンたちの叫び声によって「ステージ上で自分たちの演奏すらも聞こえなくなったからだ」と語っている。この言葉はロックの運命を象徴している。ロックはメッセージを歌うが、そのメッセージは本質上「届かない」ものなのだ。ところで、上に述べたロックの過剰な音量がもたらす政治空間は、開かれたとみるやただちに閉じられてしまった。いうまでもなく、ヘッドフォンの普及が、ロックの大音量がリスニングルームの周囲につかのま波及させた無用な葛藤を無化してしまったのだ。しかし、ロックとはその葛藤ゆえにロックだったのではないのか。今日、通勤電車の若者の耳元でシャカシャカ鳴ってるあれは、ロックではないのだ。(護法)

護 法 p r o f i l e