[週刊電藝」2008年12月30日配信号より

2009年 正月映画おすすめガイド

正月映画がほぼ出揃った。年末年始は、映画興行界にとってゴールデンウィーク&夏休みと並ぶ書き入れ時だ。当然、配給各社はこの時期にそれぞれとっておきの作品を擁して勝負に出る。鳴り物入りの超大作が、敢えてこの時期を待って公開されることも少なくない。映画ファンにはたまらないシーズンなのだ。今回はいつもとは趣向を変えて、年末年始に公開されるお正月映画の中からおすすめの作品をピックアップして御紹介する。>2009年 正月映画おすすめガイド

「僕らは多重人格のところに、器を与えられ、三人で共存しているんだ。」
「からかわないで。」
 ブランカが、メェ、と啼いた。
「わかってもらえなくて、残念だよ。僕はカイエよりはるかに知能が高いんだけどね。」
「子供の遊びには、付き合い切れないわ。」
 スーは、赤いビニルテープでぐるぐる巻きの荷物を小脇に抱えると、
「ぢゃあね、」
と、云って出ていった。
「カイエ。鍵をかけろよ。」
 ブラウンが云う。カイエは鍵を掛けた。
「ココアでも飲もうか。」
「そうしろ、カイエが落ち着くなら。」
 そこで、カイエはココアを練った。カイエは時計が読めないので、ブランカに寝かせる時間を計ってもらった。ツェザーレ氏のヌード

[週刊電藝」2008年12月22日配信号より
何にしても
特に嬉しいものではないに違いない
服を着た犬はもはや珍しくなくなったが、ペットショップに行くと「トナカイ」とか「ししまい」とか、季節ごとの犬猫用の「かぶりもの」もよく見かける。
自分でも猫を描くときに、年中行事にちなんだ衣装を着せることはあるけれど、本当は毛皮の上から服を着せるのはどうにも落ち着かない。別に動物愛護の精神ではなくて「布と毛皮なら布がインナーで毛皮がアウター」というイメージがあるからで、そもそも毛のない爬虫類なら抵抗はない。犬猫もあらかじめ毛を剃って布の服を着せるならいい気がする。日々のケダマ


確実に、
体の、とゆーか、筋肉の張りが違う。
イタリア語の発声からくるコトもあるし、
生活習慣からくるコトもあるし、
周りの影響もあるし、
それは色々なワケがあるのだけれど、
一言でいうと、
西洋人は姿勢が良くて声もでかくてハキハキしてて動作も大きくてどこか屈託無く明るい。
のに対して日本人は姿勢が悪くてボソボソしていて動作が控えめでどこかもったいぶっている。
言語とか生活習慣とかによって、
使っている筋肉、もしくは筋肉の使い方?が違う。
(おんなじ日本の中でも、関東と関西ではもー既にちょこっと違ったりする気もする。)
とゆーコトをなんだか実感した。

全員が全員そーなんじゃないのは当たり前だけれど、
だいたいそんな感じ。
<ダイナミズム> 対 <抑制>
どっちもそれぞれの美を持ってるんだろー。
好みの問題かなぁ。浪速サバイバル日記

[週刊電藝」2008年12月1日配信号より
福島聡
『DAY DREAM BELIEVER again』

日々は常に過ぎていく。その中で、ぼくたちは自分のノルマをタイトにこなすだけでも問題ないのだが、ぼく自身にはそれを続けていくほどに何かを見失っている、という感覚がどこかに残る。そんなとき、夢は有限の現実に無限の余白を与えてくれるのだ。甘美で、遊離していて、それでいて自分のものでしかない夢という余白。夢を持ち続けることで、現実の日々は重層的になり、厚みを帯びてくる。しかし一方で、夢は実体を持たないが故に、気を許すと自分の生活を浸食しだす危険なものでもある。この危うい均衡の中で、ぼくは、そして人々も生きているように思う。
『DAY DREAM BELIEVER』は、実体はないが確実に自分の中に存在する、この不透明な余白を表現したものに映った。当時「モーニング」で連載していたときに、ぼくは訳も分からずに引きずり込まれた。登場人物たちは明確な目的もなく、ただ己の欲望だけで進み続ける。古今漫画夢現

[週刊電藝」2008年9月15日配信号より

『嫌われ松子の一生』。
 僕にとってつらい映画だと、劇場公開時に友人が気遣ってくれた作品だ。
 鑑賞したとmixiの日記で書いた時も、一人のマイミクさんが「大丈夫か?」とTelしてくれた。
 中谷美紀扮する松子がヒロイン。松子は転落人生を辿り、ボロボロになっていく。松子は美女だったが、人生の渦に巻かれて堕ちていく。それに伴って端麗だった容姿は原型を留めないほど崩れていく。同時に行為・言動も崩れていく。この「崩れていく」は「壊れていく」と言い換えてもいいだろう。終盤の松子は、一見、キ○ガイだ。私はやはり貴方のことを
 「普通じゃない」と思います

[週刊電藝」2008年7月7日配信号より

チャック・ノリスの
七光りが生んだ
木曜洋画チックな佳編
「オーバー・キル」

 6年連続で全米空手チャンプに輝いたにもかかわらず、一般的には

『ドラゴンへの道』でブルース・リーと対決した人

或いは、

『地獄のヒーロー』でスタローンやシュワルツェネッガーに対抗したのに、失笑買った人

程度の認知しかされていないチャック・ノリス。
 一言で言えば「華が無い」のだが、そのチャック・ノリスにも、弟の主演作を作らせてしまう位の七光りはあった(今は無い)。
 その弟の名はアーロン・ノリス。
 長年、兄のスタントマン、兄の主演作の監督として日陰を歩き続けた結果、今までの鬱屈が爆発したのかどうかは知らないが、突如としてアーロンの主演作が日本でリリースされた。
 タイトルは「オーバーキル」。忘8ビデオ道

[週刊電藝」2008年6月2日配信号より

恋愛映画シネマラマン 愛人映画の愉しみ
 昨年秋、以前連載した本欄を読んでくださった読者からのお便りがあったと編集長からメールがありました。さっそく続編(?)を書こうと思いつつ、諸事情でもう春になってしまいました。
 お便りを送ってくださった方が挙げていたのは「恋愛小説」。<愛人映画> とは、もともと自分のホームページでの企画なのですが、だいぶ前のことなので記憶も薄れており、今見直してみたのですが、この映画は残念ながら入っていませんでした。でも調べてみると、たしかに見た記憶がうっすらと……DVDかな?
「恋愛小説」は94年12月公開のロシア=仏合映画で、32歳の若きロシア監督V・トドロフスキーの作品。フィルムノワール犯罪形式のスタイルで、義母が書く小説のタイピストである妻が愛人へ走る――という物語だそう。このタイプシーンがうっすら残っているので、きっとどこかで見ていると思います。
 すっかり遅くなりましたが、お便りありがとうございました。シネマラマン 愛人映画の愉しみ
柔道は武道であり、
スポーツとしての
“JUDO”ではない
“喇叭気味の毎日
 2008年5月4日(日)に視聴したNHKスペシャル『JUDOを学べ〜日本柔道金メダルへの苦闘〜』は非常に興味深かった。内容は実に単純明快。何故、井上康生は勝てなくなったのか? 北京オリンピックで“金”を獲る方法は何か? ということである。
 フランスの柔道登録人口は日本の3倍の60万人。ドイツでは35万人。世界最大の競技圏を形成するヨーロッパには、従来の柔道とは技やルールの解釈が異なり、“ジャケット レスリング”とすら呼ばれる“JUDO”が存在する。
 レスリングや民族格闘技の技術をベースに、腕の付け根や背中をつかんで柔道独特の間合いを封殺する、ほとんど柔道着をつかまずタックルや反り投げを狙う、相手に組みついたまま自ら一回転して相手の背中を畳に叩きつけるといった戦術は、細かいポイントを積み重ね、僅差であっても勝ちにこだわる競技性を最優先したもので、もはや、我々の知っている柔道とは全く別のものである。“喇叭気味の毎日
[週刊電藝」2008年4月21日配信号より

text/
鈴木武史
 一人で複数の敵を相手にするときは、壁を背にするのが鉄則だ。そうすれば、後ろから攻撃されることはない。が、ぐるぐる回る囲みを破るのは難しい。それに、ケンに左側を見せて回っているので、武器を持った右手が見えにくい。だが、服の色で、どんな武器を持っているかがわかる。
 ケンは右手の杖、左手の小刀を中段の左右に広げて構え、動きを止めた。心の目で敵の攻撃を察知するのだ。中国服の男たちは、依然としてケンの周囲を回っている、特殊杖や小刀の届く間合いではない。
 白服の男が右手で鎖を回し始めた。走りながら鎖の先についた鉄球をケンに投げつける。ケンは、首を少し動かしてこれをかわした。白服はすぐさま鉄球を引き戻し、再び鎖を回してきた。神の剣
[週刊電藝」2008年4月14日配信号より
プロスペル・メリメ/杉捷夫
「トレドの真珠」

黒人の騎士チュザンニは、トレドの真珠と褒め称えられる絶世の美女オーロールを手に入れるために、ドン・ギュッティエレに果たし状を渡す。だが、泉水のほとりで、騎士は無惨にも決闘に破れ、命果てようとしていた。そのとき駆けつけたトレドの真珠に、騎士は……。トレドの真珠

[週刊電藝」2007年3月17日配信号より
 
 彼は隣県にある全国的に有名なサファリパークに勤めていた。住み込みで園内道路の整備係をしていたのだ。
「ノロジカのうんこがな」と彼はしばしばいい、サファリパークの縞馬状に斑模様のブルーバードを乗り回していた。敷地のなかに無断で乗り入れて、15号棟の前にいつも堂々と駐車した。
「ミューの群れに取り囲まれたのよ」深夜蒼ざめて帰ってくるなり彼女がそういったことがあった。フロントグラスから、リアヴューミラーから、覗き込む、無表情なせわしい視線。
[週刊電藝」2008年2月4日配信号より

オフ会。
 この街では一番大きいショッピングセンター。昼過ぎにそこの駐車場で待ち合わす段取りであったのだが、オフ会のメンバーと顔を合わすのは初めてだし、もし変な集団(○○系な方々)が来れば絶対に逃げようと思い、遠くの柱の陰から様子を伺う事にした。
   しばらくして、それらしき二人組が前方に現れる。一人は長身で細身で色 白。短髪で如何にも爽やかな好青年。服装も今風と言うにはやや地味で主張していない。
[週刊電藝」2008年1月07日配信号より
2003年の本欄で「ビリケンさん」という稿を認めた。人の興味というものは経年変化するようだが、小拙のビリケンさん熱は4年経っても冷めていない。当時の文章を「○」に、それに関連した現在の文を「▼」にまとめてみた。
[週刊電藝」2007年8月6日配信号より


text/税所たしぎ

 
 波乗りにも、ルールがありマナーがある。はっきりとした言葉で表せるもの、言葉では言い表しがたいもの、ワンマンワンウェーブ。わかりやすい。ひとつの波にひとりが乗る。そのためには、その波はだれのものなのか、という優先順位が必要だ。
[週刊電藝」2007年7月23日配信号より
 

微熱を保ちたいから

想い続けるのか、

想い続けるから

微熱が続くのか、

[週刊電藝」2007年7月9日配信号より
 
 
 ようちえんから帰ってくると、ママがテーブルに突っ伏して泣いていた。
 まるで床に転がった子犬みたいにしくしく泣いていて、私はびっくりして恐る恐るママに近付いた。

 ママ、どうしたの? どこかいたいの?

 ママは何も答えない。ママは身体を震わせながら赤ちゃんみたいにわんわん泣
       いていて、時々車にひかれて死にそうな猫みたいに、痙
       攣するみたいに左足首がぴくぴく動いた。私はママの横
       を通って自分の部屋に入って、

[週刊電藝」2007年2月5日配信号より

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e
x
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 冬は必ずやって来る
 
 寒い朝のテーブルの上に
 堅い種子がひとつ
 身動きもせずに
 何かと闘っている
 わたしはときおり手にとって
 実の堅さを確かめる



[展評エッセイ]
text/慧 厳

 公営巨大貸し画廊「国立新美術館」もついにオープンし、いまや“六本木アート化計画”に邁進するこのエリアの総本山たるヒルズの森美術館へ、足を運ぶ。
 広がりゆく格差社会の中で、勝ち組の笑いが止まらないせいか、「笑い」をテーマにした二つの展覧会が併催されるという、思えば皮肉かつ、ユニークな試み。かたや縄文から近代までの日本美術の中に偏在する「笑い」を体系化して見せる <日本美術が笑う> 展。かたやフルクサス以降の世界中の現代アートの中に遍在する「笑い」の様相を提示する <笑い展 現代アートにみる「おかしみ」の事情>。

[週刊電藝」2006年12月4日配信号より



text/高梨・C・晶
「監督不行届」
監督不行届
出版のしごとにまだ携わっていたころ、「エレキな春」でデビューした某まんが家夫婦の本を部下が編集していた。夫婦とは打ち合わせもかねて何度か食事をしたが、世代が近いせいもあって、夫婦生活の話はとても面白く、好感をもったことをおぼえている。もっとも、夫婦とはたいてい面白いものであって、別の女性部下が結婚し(今は離婚したが)、自分たちの生活の話──たしか、ベッドからどうしても布団がずり落ちてしまうので、大きなゴムバンドで、ベッドごと足もとをしばりつけているとのことだった──を聞かせてくれた。監督不行届
[週刊電藝」2006年7月3日配信号より
 ほそい、すきとおった骨を丹念に取り分ける。青い畳のうえでこっそりくずした脚のあいだから、ゆらりと熱がたちのぼって。
「雨にあたられながら」
「そんな時間まで?」
 蝋燭の光でもないのに恐ろしく心細い明かりだ、黄ばんだ壁に焼きついた影が揺れる。通過する電車の振動で木枠に嵌ったガラスががたがた鳴る。下卑た箸先でつまんだ骨を明かりに透かしてじいっと凝視する。半眼で気持ち悪い。
「死んだものだとばかり」
[週刊電藝」2006年6月19日配信号より
 ひとりぼっちになろうと
 無邪気に積み木を積んだんだ
 ひとりぼっちになろうと
 チェリー色の爪で苺を頬ばったんだ
 ひとりぼっちになろうと
 宛先のない手紙をいっぱい書いたんだ
 ひとりぼっちになろうと
 真っ黒な服で街を歩いたんだ

 あなたを失ったわたしは
 ひとりぼっちになろうと
 あなたの好きな音楽を朝まで聴いたのです
 あなたのくれた本を泣きながら読んだのです

[週刊電藝」2006年6月12日配信号より

06月02日

 明日をください。希望をください。その体温をわけてください。
 もういちど歩いてゆけるなら、あなたを愛させてください。
 わたしを労らないでください。わたしに優しい笑顔をむけないでください。
 わたしにあなたの痛みに釣りあうほどの痛みをください。
[週刊電藝」2006年5月8日配信号より

text/
石川カヲル

 生まれた時にばらまいた名前を
 はしごにのぼってあつめていた
 古い煉瓦に囲まれた白い街は
 遠くの太陽に照らされ
 すこしずつ飴色に変わった

 明日を紡ぎながら飛行している風が
 手をあげたわたしに光をしのばせる



[週刊電藝」2005年12月12日配信号より







あ ら し の よ る に
あらしのよるに
 久しぶりの連載再開、映画化に便乗して「あらしのよるに」を取り上げることにしよう。2ちゃんねるの絵本スレッドに「荒らしのよるに」というのがあるのを見つけて、わらってしまったよ。
 筆者は杉村ジュサブローの映画を見ずに書いているのだが、ガブの声をアテている中村獅童(なんとガブにそっくりではないか)が熱演しているらしく、先週(12月10日)封切の出だしは好調で、ヒットの兆しがある。またしても <感動> ものがヒットするのである。あらしのよるに
[週刊電藝」2005年10月31日配信号より

text/塚本敏雄
福間健二『侵入し、通過してゆく』

 福間健二の『侵入し、通過してゆく』を読む。「現代詩手帖」に連載した詩らしい。「らしい」というのは、私は連載時には読んでいないからである。
 まず福間健二について略歴をみておきたい。1949年生まれというから、現在は50代半ばであるはず。詩人として知られるようになったのは比較的遅い印象があるが、それは私の誤解だろうか。とても多作な人で、多くの詩集を出している。福間健二『侵入し、通過してゆく』

[週刊電藝」2005年10月10日配信号より





















text/
吉田直平
「愛してる、愛してない…」の原題は「A la folie, pas du tout」である。フランスの花占いには、Il m'aime un peu(彼は私のことを少し好き)/beaucoup(大好き)/passionnement(すごく)/a la folie(死ぬほど)/pas du tout(全然)と5つの分岐があるという。最良の「死ぬほど」を1枚めくると「全然」という最悪の結果になる(「好き」にならない確率は日本の花占いの 2.5倍だ!)という遊戯性が、この映画の前半と後半の対比を表しているわけだが、しかし、仏版予告編を見ると、日本公開時のように、それを意外性のあるどんでん返しとしてプロモーションをしようという意図はあまり感じられない。愛してる、愛してない…

[週刊電藝」2004年8月9日配信号より
「ねえ、何か飲むものあるかな」
 タッフィは、のどを(のどのあたりを)その短い手でくいくいと指し示した。
「やあ、気が付かなくて。いま湯をわかすよ」
 わたしは流し台へ湯を沸かしに立った。やかんに水を入れながらそっと振り向いてみると部屋の真ん中に小さな茶色のかたまりがふわふわと幻影のように揺れている。夜が明けたのか新聞屋がばたばたと配達して回る音のなか、やかんから立ち上る蒸気を見ているうちめまいを感じてしゃがみこんだ。