[週刊電藝」2010年3月29日配信号より
三好銀
『海辺へ行く道 夏』
三好銀、もう何年も前にモーニングで『三好さんとこの日曜日』という作品を連載していた方だという。そんな方が昨年コミックビームにふと現れ、何編かの作品を載せていった。その作品群は、少し前に『海辺へ行く道 夏』という名で単行本となった。
不思議な面持ちをした作品である。雑誌で読んだときには、他のアクの強い連載陣の中で“奇妙な絵だな”とくらいにしか思わなかった。たとえば『高岡刃物商店』では、なまくらの包丁を売りつける男が、町の主婦をうまく丸め込んでトンズラする話だ。それ以上、特に何があるというわけでもない。だから何だと言いたくなるほどのインパクトの薄さだ。しかし、それが一冊の本となると、とたんに違った表情を見せてくる。
[週刊電藝」2010年3月15日配信号より
新しい猫のいる新しい生活。
いろいろあったが、うちにはいま、子猫がいる。
猫のたくさんいる家から来た子猫は人間よりも猫が好きらしく、ゲージから出るとまっすぐに先住猫のヲザワに身をすり寄せに行き、ヲザワの方が驚いて飛び退いていた。数日もすると2匹はすっかり仲良くなり、お互いに毛繕いをするくらいにもなったのだが、目には見えないストレスがあったのか、ヲザワはしばらく嘔吐が止まらなくなり、声もかすれてしまったのだった(今は落ち着いている)。ちなみに子猫の名前はコバケンという。
[週刊電藝」2010年3月1日配信号より
まえに転んだとしても
それさえ いとおしい
黄の花が土の上で笑っていた
水音は音符のよう
偽りにくい苦しみと
まっさらな今日
どちらをえらんでゆくの
彼の舌は、滑らかだった。
つるつるである、とさえ形容できるほど乳頭が整い、味蕾の在り処など全く感じさせない。こういった舌は、煙草臭さも感じないものなのだろうか。
そう言えば、僕はタカオの舌を知らない。
舌だけではなく、繋いだ手の感触以外何も知らなかった。
[週刊電藝」2009年10月5日配信号より
[猟漫日記]
伊藤潤二
禍々しき時代を彩る錦絵師


ホラー漫画のパイオニアといえば、やはり楳図かずおということになると思う。それも、単純な視覚的怖さ(いやいや、楳図かずおの漫画は絵だけでも相当怖い(苦笑) あのギャグ漫画『まことちゃん』でさえ、楳図特有の作画が恐怖を突き抜け、笑いへとねじれた結果なのだ)ではなく、複雑な人間心理が紡ぎ出す、身近に誰でもに起こりうる、しかし血も凍る恐怖。この楳図かずおの功績を称えた第1回楳図賞(当時の選考委員は楳図かずお、稲川淳二、菊地秀行ら)での佳作入選を契機に、本格デビューを果たしたのが伊藤潤二である。
不条理、超常現象、異界、心理的恐怖、リアル、伝奇、ナンセンスギャグ等々、取り上げられたテーマはホラー漫画という枠組みでとらえる他ない自由奔放さだが、8割を上回る脅威の高打率で傑作揃いであり、アイディア、プロットと展開の見事さ、作画力そして量産性とも他の同年代の作家を大きくリードしていることは間違いない。
[週刊電藝」2009年6月29日配信号より
桜か…。
日本の桜、もっと懐かしーかと思ったけどそーでもないな?
きっと、
ミラノから戻って来てまた好きな人と会えないとか、
イタリアが現実的に遠くなって来ているからかも。
その代わり、
この桜はこれから毎年の樣に見るんだろう。
十数年の空白があっても、
やっぱり自分の生まれ育った国の景色や習慣を取り戻すのは、
本当に雑作も無い作業で、
そのコトはダンナさんもアタシも帰国前から予感していて、
だからわざとオーサカとゆー縁もゆかりも無い土地を選んで暮らしてみてるのだけれど、
それはもしかしたら無駄な抵抗なのかも知れない。
[週刊電藝」2009年6月1日配信号より
青色の絵の具を
僕のも使って
赤も黄も
好きな白も
みんな
青にして
昼も夜も
青に
好きに
使っても
使わなくても
側にいて
僕がダメな時
殴ったりしていい
何処かへ行かないで
死ぬ時も
来る6月6日&7日の2日間、神戸映画資料館にて【極北の自主映画が来る!】と題されたインディーズ映画上映イベントが開催となる。
ここで気を惹くのは、何と言っても「極北」の2文字だ。「極北の自主映画」とはいかなるいものか? 「傑作」とも、「頂点」ともちょっと違う。定められた規範からの逸脱を予感させるこの言葉からは、得体の知れない不穏さを放ちつつ、同時にとてつもなく魅力的であるという、魔力めいた引力が感じられる。
今回上映されるのは2作品。映画批評家としても活躍する葛生賢監督の『吉野葛』と、映画愛に満ちた木村卓司監督の『シネマトグラフ オブ エンパイア』。上映当日は吉野・木村の両監督の来場も決定! 舞台挨拶&トークショーを開催するとのこと。関東(東京)と関西(滋賀)が誇る2人の才人が、神戸の夜に銀幕という魔法をかける!
[週刊電藝」2009年5月18日配信号より
スーが出ていったあとで、カフェイン中毒病棟、という絵を画いた。片腕で顔を庇い、その腕の向こうに涙と顔が透けている絵だ。『ひとつ一夜の恋情け、ふたつ不埒な女陰の疼き、みっつ淫らな地蔵の躯、よっつ弱った羽虫の交尾、いつついつものいけない手癖、むっつむなしい独り上手、ななつなつかし男の匂い。やっつやっぱりこの世は生き地獄、ここのつ滑稽昔年の恋、とおでとうとう砕け梯子。』
その絵は、賞を取った。カフィの代表作になった。カイエの絵は、カフィ・ブルーと称されるようになった。賞を取った晩、カイエはパレットをきれいに洗って青色をぜんぶ落とした。
「メェ。カイエは死ぬべきだとおもう。」
「僕もだ、ブランカ。」
ブラウンが応える。
「でも、最期の一枚が残っているね。」
カイエが応じた。
「ツェザーレ氏のヌードだ。」
[週刊電藝」2009年4月13日配信号より
日本シリーズとは、日本選手権シリーズの通称で、セ・リーグとパ・リーグの各クライマックスシリーズの勝者同士が対戦して日本一を決めるシリーズ試合である。日本シリーズは毎年10月ごろに行われる。1953年までは日本ワールドシリーズという名称で呼ばれていた。2006年までは両リーグ優勝チームが日本一を争う試合だったが、クライマックスシリーズの導入により、2007年からは制度が変更された。
日本シリーズの優勝チームは、巨人や西武などによる常勝が続く時代もあったが、同一チームの連覇は、パ・リーグでは1990〜1992年の西武、セ・リーグでは1979〜80年の広島以降なく、近年は日本一チームが毎年入れ替わっている。通算成績はセ・リーグがリードしているが、2003年以降はパ・リーグが4連覇している。
[週刊電藝」2008年9月15日配信号より
『嫌われ松子の一生』。
僕にとってつらい映画だと、劇場公開時に友人が気遣ってくれた作品だ。
鑑賞したとmixiの日記で書いた時も、一人のマイミクさんが「大丈夫か?」とTelしてくれた。
中谷美紀扮する松子がヒロイン。松子は転落人生を辿り、ボロボロになっていく。松子は美女だったが、人生の渦に巻かれて堕ちていく。それに伴って端麗だった容姿は原型を留めないほど崩れていく。同時に行為・言動も崩れていく。この「崩れていく」は「壊れていく」と言い換えてもいいだろう。終盤の松子は、一見、キ○ガイだ。
[週刊電藝」2008年7月7日配信号より
チャック・ノリスの
七光りが生んだ
木曜洋画チックな佳編
「オーバー・キル」
6年連続で全米空手チャンプに輝いたにもかかわらず、一般的には
『ドラゴンへの道』でブルース・リーと対決した人
或いは、
『地獄のヒーロー』でスタローンやシュワルツェネッガーに対抗したのに、失笑買った人
程度の認知しかされていないチャック・ノリス。
一言で言えば「華が無い」のだが、そのチャック・ノリスにも、弟の主演作を作らせてしまう位の七光りはあった(今は無い)。
その弟の名はアーロン・ノリス。
長年、兄のスタントマン、兄の主演作の監督として日陰を歩き続けた結果、今までの鬱屈が爆発したのかどうかは知らないが、突如としてアーロンの主演作が日本でリリースされた。
タイトルは「オーバーキル」。
[週刊電藝」2008年6月2日配信号より
昨年秋、以前連載した本欄を読んでくださった読者からのお便りがあったと編集長からメールがありました。さっそく続編(?)を書こうと思いつつ、諸事情でもう春になってしまいました。
お便りを送ってくださった方が挙げていたのは「恋愛小説」。<愛人映画> とは、もともと自分のホームページでの企画なのですが、だいぶ前のことなので記憶も薄れており、今見直してみたのですが、この映画は残念ながら入っていませんでした。でも調べてみると、たしかに見た記憶がうっすらと……DVDかな?
「恋愛小説」は94年12月公開のロシア=仏合映画で、32歳の若きロシア監督V・トドロフスキーの作品。フィルムノワール犯罪形式のスタイルで、義母が書く小説のタイピストである妻が愛人へ走る――という物語だそう。このタイプシーンがうっすら残っているので、きっとどこかで見ていると思います。
すっかり遅くなりましたが、お便りありがとうございました。
[週刊電藝」2008年4月21日配信号より

text/
鈴木武史
一人で複数の敵を相手にするときは、壁を背にするのが鉄則だ。そうすれば、後ろから攻撃されることはない。が、ぐるぐる回る囲みを破るのは難しい。それに、ケンに左側を見せて回っているので、武器を持った右手が見えにくい。だが、服の色で、どんな武器を持っているかがわかる。
ケンは右手の杖、左手の小刀を中段の左右に広げて構え、動きを止めた。心の目で敵の攻撃を察知するのだ。中国服の男たちは、依然としてケンの周囲を回っている、特殊杖や小刀の届く間合いではない。
白服の男が右手で鎖を回し始めた。走りながら鎖の先についた鉄球をケンに投げつける。ケンは、首を少し動かしてこれをかわした。白服はすぐさま鉄球を引き戻し、再び鎖を回してきた。
[週刊電藝」2008年4月14日配信号より
プロスペル・メリメ/杉捷夫
「トレドの真珠」
▼
黒人の騎士チュザンニは、トレドの真珠と褒め称えられる絶世の美女オーロールを手に入れるために、ドン・ギュッティエレに果たし状を渡す。だが、泉水のほとりで、騎士は無惨にも決闘に破れ、命果てようとしていた。そのとき駆けつけたトレドの真珠に、騎士は……。
[週刊電藝」2007年3月17日配信号より
彼は隣県にある全国的に有名なサファリパークに勤めていた。住み込みで園内道路の整備係をしていたのだ。
「ノロジカのうんこがな」と彼はしばしばいい、サファリパークの縞馬状に斑模様のブルーバードを乗り回していた。敷地のなかに無断で乗り入れて、15号棟の前にいつも堂々と駐車した。
「ミューの群れに取り囲まれたのよ」深夜蒼ざめて帰ってくるなり彼女がそういったことがあった。フロントグラスから、リアヴューミラーから、覗き込む、無表情なせわしい視線。
[週刊電藝」2008年2月4日配信号より

オフ会。
この街では一番大きいショッピングセンター。昼過ぎにそこの駐車場で待ち合わす段取りであったのだが、オフ会のメンバーと顔を合わすのは初めてだし、もし変な集団(○○系な方々)が来れば絶対に逃げようと思い、遠くの柱の陰から様子を伺う事にした。
しばらくして、それらしき二人組が前方に現れる。一人は長身で細身で色 白。短髪で如何にも爽やかな好青年。服装も今風と言うにはやや地味で主張していない。
[週刊電藝」2008年1月07日配信号より
2003年の本欄で「ビリケンさん」という稿を認めた。人の興味というものは経年変化するようだが、小拙のビリケンさん熱は4年経っても冷めていない。当時の文章を「○」に、それに関連した現在の文を「▼」にまとめてみた。
[週刊電藝」2007年8月6日配信号より
波乗りにも、ルールがありマナーがある。はっきりとした言葉で表せるもの、言葉では言い表しがたいもの、ワンマンワンウェーブ。わかりやすい。ひとつの波にひとりが乗る。そのためには、その波はだれのものなのか、という優先順位が必要だ。
[週刊電藝」2007年7月23日配信号より
微熱を保ちたいから
想い続けるのか、
想い続けるから
微熱が続くのか、
[週刊電藝」2007年7月9日配信号より
ようちえんから帰ってくると、ママがテーブルに突っ伏して泣いていた。
まるで床に転がった子犬みたいにしくしく泣いていて、私はびっくりして恐る恐るママに近付いた。
ママ、どうしたの? どこかいたいの?
ママは何も答えない。ママは身体を震わせながら赤ちゃんみたいにわんわん泣
いていて、時々車にひかれて死にそうな猫みたいに、痙
攣するみたいに左足首がぴくぴく動いた。私はママの横
を通って自分の部屋に入って、
[週刊電藝」2007年2月5日配信号より

t
e
x
t
/
塚
本
敏
雄
冬は必ずやって来る
寒い朝のテーブルの上に
堅い種子がひとつ
身動きもせずに
何かと闘っている
わたしはときおり手にとって
実の堅さを確かめる

[展評エッセイ]
text/慧 厳
公営巨大貸し画廊「国立新美術館」もついにオープンし、いまや“六本木アート化計画”に邁進するこのエリアの総本山たるヒルズの森美術館へ、足を運ぶ。
広がりゆく格差社会の中で、勝ち組の笑いが止まらないせいか、「笑い」をテーマにした二つの展覧会が併催されるという、思えば皮肉かつ、ユニークな試み。かたや縄文から近代までの日本美術の中に偏在する「笑い」を体系化して見せる
<日本美術が笑う> 展。かたやフルクサス以降の世界中の現代アートの中に遍在する「笑い」の様相を提示する
<笑い展 現代アートにみる「おかしみ」の事情>。
[週刊電藝」2006年12月4日配信号より
text/高梨・C・晶
「監督不行届」
出版のしごとにまだ携わっていたころ、「エレキな春」でデビューした某まんが家夫婦の本を部下が編集していた。夫婦とは打ち合わせもかねて何度か食事をしたが、世代が近いせいもあって、夫婦生活の話はとても面白く、好感をもったことをおぼえている。もっとも、夫婦とはたいてい面白いものであって、別の女性部下が結婚し(今は離婚したが)、自分たちの生活の話──たしか、ベッドからどうしても布団がずり落ちてしまうので、大きなゴムバンドで、ベッドごと足もとをしばりつけているとのことだった──を聞かせてくれた。
[週刊電藝」2006年5月8日配信号より
text/
石川カヲル
生まれた時にばらまいた名前を
はしごにのぼってあつめていた
古い煉瓦に囲まれた白い街は
遠くの太陽に照らされ
すこしずつ飴色に変わった
明日を紡ぎながら飛行している風が
手をあげたわたしに光をしのばせる
[週刊電藝」2005年12月12日配信号より
あ ら し の よ る に
久しぶりの連載再開、映画化に便乗して「あらしのよるに」を取り上げることにしよう。2ちゃんねるの絵本スレッドに「荒らしのよるに」というのがあるのを見つけて、わらってしまったよ。
筆者は杉村ジュサブローの映画を見ずに書いているのだが、ガブの声をアテている中村獅童(なんとガブにそっくりではないか)が熱演しているらしく、先週(12月10日)封切の出だしは好調で、ヒットの兆しがある。またしても
<感動> ものがヒットするのである。
[週刊電藝」2005年10月31日配信号より
text/塚本敏雄
福間健二の『侵入し、通過してゆく』を読む。「現代詩手帖」に連載した詩らしい。「らしい」というのは、私は連載時には読んでいないからである。
まず福間健二について略歴をみておきたい。1949年生まれというから、現在は50代半ばであるはず。詩人として知られるようになったのは比較的遅い印象があるが、それは私の誤解だろうか。とても多作な人で、多くの詩集を出している。
[週刊電藝」2005年10月10日配信号より
text/
吉田直平
「愛してる、愛してない…」の原題は「A la folie, pas du tout」である。フランスの花占いには、Il
m'aime un peu(彼は私のことを少し好き)/beaucoup(大好き)/passionnement(すごく)/a
la folie(死ぬほど)/pas du tout(全然)と5つの分岐があるという。最良の「死ぬほど」を1枚めくると「全然」という最悪の結果になる(「好き」にならない確率は日本の花占いの
2.5倍だ!)という遊戯性が、この映画の前半と後半の対比を表しているわけだが、しかし、仏版予告編を見ると、日本公開時のように、それを意外性のあるどんでん返しとしてプロモーションをしようという意図はあまり感じられない。